見出し画像

10 自分が不幸ではないと知らせることが、だれかの不幸になること。

劇場版『きのう何食べた?』

  劇場版『きのう何食べた?』を見た。中江和仁監督。よしながふみ原作。安達奈緒子脚本。無言の演技がいい西島秀俊、饒舌な中に微妙な目の動きで別の気持ちを伝える内野聖陽。この二人の演技合戦でありつつ、仲のよい二人でありながら感情の起伏が激しい。ラブシーンはなく、それを料理で補う。
 ドラマの中で、もう正月には連れて来ないでくれ、と父母に言われてしまう。息子が同性愛のパートナーを連れて来ることを、頭では理解していても、現実では対応できない父母たち側の悩みもあることがわかる。主人公が「ただ自分が不幸ではないと知らせたかった」と、あえて連れて行った理由を述べていた。
 こちらが幸せでいることを伝える、不幸ではないと伝えること。一般的にそれは喜ばしいことであり、恐らく誰もが「伝えた方がいい」と賛同することだろう。だが、世の中では、自分が不幸ではないと知らせることで、だれかの不幸になることがあるのではないか?
 これは少し重たいことかもしれない。この劇場版は、映画というよりもテレビドラマの延長に位置づけられていて、とにかく、深刻になり過ぎないのだが、語られているテーマは、深刻である。実家を継ぐのか。老いていく父母とどういう関係を保つのか。パートナーとどのような将来を描くのか。どれひとつとっても、それぞれに大きく深いテーマである。
 例えば、「結婚しました」通知などがやってきて、それを受け取った側は、「よかった」と思いつつ、実はちょっぴり不幸を味わっている。スポーツでも、誰かがMVPを取れば、それは誰かの残念の上になりたつ喜びだ。決勝戦で勝つということは、多くの敗者の頂点に立つことである。

『ミステリと言う勿れ』特別編

 episode1の部分だけだが、『ミステリと言う勿れ』特別編を見た。テレビシリーズは途中から見たので、この冒頭を見ていなかったから、楽しめた。「真実は一つなんかじゃないですよ」「真実は人の数だけあるんですよ」「でも事実は一つです」と言う主人公は、任意ではあるが取り調べを受けながら真犯人を見つける。
 人の感情とは、シンプルな部分とこじれた部分が折り重なっているから、表面からはわからないことも多い。言動を額面通りに受け取れないことも多い。本当のところは当人にしかわからない。その前提で、では他人である自分はどうするか。人生はそれを推測し判断するゲームでもある。
 喜んで貰おうとしたことが、素直な喜びに結びつかないことはある。他人の不幸を見たことで、自分はまだマシだと一種の幸せを感じることもあるだろう。事実は一つでも、それをどう受け止めるかは、本人しだいなのだ。

竹のカーテンの向こう側 外国人記者が見た激動中国

 NHKは映像の世紀バタフライエフェクト「竹のカーテンの向こう側 外国人記者が見た激動中国」を放映していた。つい、見てしまった。
 あくまで欧米側の報道から見た中国である。
 それにしても、多数の犠牲の上に現在に至る大国の歴史は、外側からではなかなか伺い知れないものがある。中に入ってみても、利用されているだけかもしれない。
 軽々しく、「あの国の人たちはみんなこうだ」的な決め付けはできない。歴史上の出来事も、一方的に善悪を判定できない。
 海外から来たジャーナリストに、虚偽の姿を見せる、といったことも不可能ではないし、感化された人が、虚偽を真実のように広めてしまうこともあるだろう。
 それは、スマイルアップ問題(旧ジャニーズ問題)でも同様で、どこに事実があるのかさえも、よくわからないように操作されてしまうことがある。みんなで見たい絵を描いてしまうこともあれば、みんなで貶めることもある。記者会見を開いたことは事実で、そこで述べられた内容は事実かもしれない。だが、虚偽かもしれない。虚偽の中には、悪意のものもあれば善意のものもある。善意だったら虚偽でもいいのか、という点を含めて、事実と虚偽をきれいに切り分けることはとても難しい。
 まして、そこから「みんなハッピー」などといった世界へ向かえるのか。
 救える不幸と救えない不幸が生じることを、どの程度まで許容できるのか。
 美しい絵を描く人が悪いのではない。その美しさで、あらゆることを糊塗しようとすることが悪いのである。
 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?