351 沈黙か吐き出すか
沈黙の美徳
何か言いたいことがあるけれど、とりあえず黙っていようね、といった美徳については人間が言葉を得てから脈々と生きながらえてきたに違いない。物語化することは自分の沈黙と引き換えに、誰かによって生み出されたお話に託して言いたいことを言うための装置だったかもしれない。
どうしても言わなければならないこと以外は言わない。そんなポリシーもあながちムチャなことではない。それによって、反射的に言葉を吐き出さなくてよくなるのなら、その方がいいのかもしれない。
あるいは空疎な饒舌によって、言葉で埋め尽くすことによって守られる沈黙もあるかもしれない。「余計なことばかり言う」のは、本当に言いたいことを言わないでおくための防衛策なのかもしれない。
かもしれない話ばかりするのはどうだろう。不確かなことであっても、ある程度のボリュームを費やすことで妙な説得力を生み出すのは、フェイクニュースと同じ構造かもしれない。
さらにいまはこの世に存在していない人の言葉を借りてきて、いまの自分たちのために活用する方法もある。私が言っているのではない、かつての偉大ななんとかさんが言ったのだ、とすることで聞きやすくできるのかもしれない。
聞く人があっての言葉
どんな暴言でも暴論でも、聞く人があってはじめて意味を持つ。いや、そうかな、言葉はすでにその存在時点で意味を持っているのでは。いや、やっぱり誰かがそれを聞いて解釈してはじめて意味となるのでは。
だったら、沈黙しなくてもよくないか。
どんどん吐き出せばいい。吐き出して吐き出して、なにもなくなるまで吐いてしまえばいい。どうせ聞く人はいないのだから。
それでも、いまじゃないどこかで、かつてそうやって吐き出された言葉を、自分の言いたいことの代りに引用して利用する人が現われるかもしれない。「前に、あなたはこう言ったでしょ」と。
前になにを言ったのか正確に覚えていられる人にとっては、そうした攻撃も有効かもしれない。だから、文字に残してはいけない。オーラルな表現なら、たとえ録音されていたとしても、「覚えていない」で対応できる可能性はある。文字にしてしまったら、言い逃れは難しい。「あのときの私はどうかしていて、こんなことを書いてしまったのだが、いま思えばなにか恐ろしい力によって書かされていたのかもしれない」といった言い訳は、ホラーとしては成立するとしても、現実には成立しない。
言った事実、書いた事実はおそらくずっとその個人にまとわりつく。消しても消しても否定しても反証しても、まとわりつく。蒸し返される。こねくり回される。曲解される。新たな解釈をされる。ズタボロにされる。ボコボコにされる。
だから、黙っていよう。まして書き残すなんてしてはいけない。