156 近いようで遠い
緑と青
昔、道路の信号は緑だった。緑、黄、赤。この緑を「青信号」と呼んでいた。緑と青は、だいたいの印象で近い気もするけれど、絵で色を選択するとき、緑と青はぜんぜん違う(あたりまえか)。しかも、とくに近い関係でもない。緑は黄色に近く、青は赤と仲がいい。もちろん緑と青は隣合っていることは多いのだが、この二色を混ぜると、いまいちな色になりがちだ。つまり、緑は黄色と合わせると美しく、青は赤と合わせると美しい。いや、これは単に私の勝手な感覚だけど。
どうも青は緑を含む、ということだったらしい。
だから「青々とした」ものは、緑色なのである。
さらに、水色は、私の古い頭では青の範疇だったが、最近は青と区別していることが多いそうだ。
人間は、勝手にラベルを貼っておきながら、それをときどき融通を利かせるというか曖昧に処理してしまう。
なぜそんなことを言い出したのかといえば、このところ「池」の絵を描いているからだ。この146の記事に書いているけど。
夢に見た光景を「美しい」と私は感じたので、絵にしてみたくなった。ところが、緑の木々、遙か下に見える透明度の高い宝石のような池、そして雲海の三つの要素をうまく表現できなかった。
だから、一つずつ試しに描いてみている。今回はメディバンを使っている。マウス、ワコムのタブレットを使っている。メディバンの便利さは、さまざまな道具(鉛筆、ペン、油絵、水彩、クレヨンなど)を自由に切り替えられること。さらに筆先から出るパターンを微妙に調整できること。これによって、思いがけなくおもしろい効果を得られることもある。もちろん、失敗することもあるけれど、失敗がまったく怖くはないのである。前の状態に戻せるし、いくらでもやり直しが効く。
しかも道具を片付ける手間は、ゼロ!
ワンクリックで終了である。
色が鮮明なのもいいところで、そのせいで微妙な表現をするには工夫も必要だけど、いくらでも試行錯誤できるので苦ではない。どころか、おもしろい。
池には、水がある。今回は透明度のとても高い池のイメージだ。すると水は、水色でもいいのだが、要するにそれは空を反射した色になるはずだから、青空だったらもっと青くなるだろう。しかし右手には雲海がある。つまり太陽は遮られているか、雲間から差し込む光となるだろう。
しかし、私にはそもそも、そんな光景を描くだけの腕がない。ムリである。背伸びをしても届かないものは届かない。
池の底に水草が緑をなしている。池の縁にも緑の植物はあるだろう。緑と青の世界になっていく。
遠い世界を目指して
美しさとはなにかを考えていたけれど。
いまもそれは答えは出ていないし、自分としては本気でそれに取り組もうとしているわけでもない。
なぜなら、それはあまりにも遠い世界だからだ。
私のようなものが、美しさを確実に自分のものにするなんてことがあるだろうか? これが自分の感じる美しさだ、と示すことができるだろうか。
たぶん、できない。それは、天才的な人が一生をかけて成すことだろう。人生半分以上をのほほんと過ごしてきて、ある日突然、絵を描き始めた人間にはムリであるし、それができると公言すれば、なにかを冒涜していることになるだろう。
これまで私は節操なくいろいろなものに手を出してきたが、数年前から二つの未知の分野をいつか踏み込んでみようと考えていて、そのひとつが絵だった。いまそれをやっている。
もうひとつは音楽である。
これもまた、遠い世界だ。いまから取り組むようなことではないだろう。それはわかる。いまのところ、音楽に突っ込んでいくだけの時間はない。それでも、いまや音楽はPCやタブレットで作れてしまう。ボーカロイドもある。AIが発展してきたので、すでにAIによる作曲を趣味にしている人たちもいる。
いますぐ手は出せないけれど、もう少ししたら、自分にも手を出せるような音楽ツールが生まれてくるのではないだろうか。そんな期待も少しはしている。
遠い世界が、いつの間にか近くなっているとしたら、きっとワクワクすることだろう。
とはいえすでに手を出した絵でも、やってみると「やっぱり遠い」と実感するので、AIがあってもなくても、そもそも簡単ではない世界なのだ。
そんなことをぼんやり思っている。
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