87 無邪気な時間
テレビっ子だったから
いまの時代、テレビは生活の中で大きな存在ではなくなっている。と、言ってみたものの、ここで言う「テレビ」をどう捉えるかが、恐らく変化してしまったのだろう。いわゆる多様化だ。
コンテンツの再生装置としてのテレビは、大きな存在ではなくなった、と言うべきかもしれない。いわゆる「テレビ番組」と一括されてしまうけれど、その中身はニュースからドラマ、映画、スポーツ、バラエティなどとさまざまだ。それが、一方的に送られてくるので、こちらは選択して視聴することになる。
それが、見たいときに放送されるとは限らないので、録画装置を使うようになったのだが、いまはTVer,NHKプラスなどの配信で見ることもできるので、必ずしも視聴はテレビという装置を必要としなくなっている。
Netflix、Amazon Prime、ディズニープラスといったところを見ることもあるが、あくまでテレビはそうしたコンテンツの再生装置として存在する。スマホやタブレットでも代替できる。
私はテレビっ子であった。モノクロのロータリー式チャンネルの時代からテレビを見ていて、その結果、「テレビでなければ楽しめない世界」がいまも少しは残っている。それを、どうしても探してしまうのである。いまや、それがとても少なくなっている。
つい最近も、「 TVチャンピオン」の何度目かの復活という情報を得て、少し見たのだが、もはや、それは私の期待した「テレビでなければ楽しめない世界」ではなかった。これなら、「魔改造の夜」の方が、楽しめる。企業が、技術者たちが本気でやればやるほど、見る側としては無邪気に楽しめてしまう。成功にも失敗にも共感しながら楽しめてしまう。
そういえば、以前は、「アメトーーク」「ガキの使いやあらへんで!!」「ロンハー」「モヤさま」といった世界があって(いまもあるけど)、それを楽しみにしていたのだが、いまは、このすべてをほぼ見なくなっている。
結論から言えば、そこに、私が求める「テレビでなければ楽しめない世界」が感じられなくなった。その本質は、無邪気さではないか?
合理的で安全で計算された世界
別に、いつも体を張った危険なことをしろと言っているわけではない。
情報番組としての「街ブラ」ジャンルには、いまも「ぶらり途中下車の旅」や「有吉くんの正直さんぽ」もある。だが、そこに一切、有益な情報はない街ブラとしての「モヤさま」が輝いていた時代があった。肝心なところには行かず、どうでもいいところでお茶を濁す。そのどうでもよさを楽しむ。それを、私なりに「無邪気さ」と形容しているのだけど、そういう余裕というか遊びが、いまは感じられなくなってきている。
それは私の感性が鈍化したのだろう。だけど、それだけではない気がするのだ。いまも、「有吉の壁」にある無邪気さは楽しいと感じている。完成されたネタで笑わせる番組も好きだけれど、そこにはあまりにも芸の世界があるから、ただ無邪気とはいかない。
そんなことに気づいたのは、先日、日曜日の早朝、NHK「演芸図鑑」を久しぶりに見て(犬に起こされたからであるけど)、司会が立川志らくになっていたことを知って、つい見入ってしまった。立川志らくの落語は「たいこ腹」をやったのだが、これがとてもいい。話の入り方、「天城越え」のメロディーで童謡を歌うどうでもいいけどおもしろい中盤、そして古典の元の噺の部分をぎゅっとやりきった。芸の素晴らしさと同時に、そこにはわざとらしさの感じられないぐらいまで詰め込んだ無邪気さを感じた。
しかもその後のゲストがランジャタイだったのだ。そうだ、彼らがいた。いま、とんでもなく無邪気な笑いを届けてくれる。トークで、稽古はせず出番直前の簡単な打ち合わせだけで演じていると聞いて、なるほどなあ、そんなことよく許されているなと感心した。
同時に、私は、テレビにそういう無邪気さを求めているんだな、と自覚したのである。安全、安心、完成度の高さ、合理的、コンプラ、SDGsなどなどから、離れた世界を求めている。
このとき、装置としてのテレビがもたらしてくれる無邪気さとは、こちらから能動的に取りに行くものではないのだ、とも感じている。勝手に送りつけられてくるのだ。こちらが、思いもしないときに、ふいに、それはやってくる。そういう楽しさが、いま失われていこうとしている。
あるいは、色褪せていこうとしている。
無責任な感覚
能動的に見るコンテンツと違い、受動的なコンテンツは勝手に送られてくるから、見る側にはまったく責任がない(そんなことはないけれども、だ)。少なくとも、「これを見よう」そして「つまらなかった」としてもそれは自己責任。「これを見よう」としたんだから。それは自分が悪い。
最近では、主演・総合演出・松田翔太。高崎卓馬・脚本の「THE TRUTH」を見て、考えてしまう。これを見ようとしたのは自分の責任である、と。つまりは自分を笑うしかないのである。
そこまで私は求めていない。もっと手前の底の浅いものを求めている。そういう時だってある。まして、こっちはテレビっ子なのだ。筋金入りだ。バカな番組をいっぱい見てきた自信はある。「見ちゃだめ」と言われそうな番組もいっぱい見た。その点で、「探偵ナイトスクープ」は、探偵たちは大きく変わったけれど、いまもまだ一種の底の浅さをあえて見せる無邪気さを保っていると言えるかもしれない。
大したことは望んでいない。もっと無邪気に、無責任に眺めたいだけなのである。小難しくなりそうなところをそうせずに浅くすくって放り投げるようなところが欲しい。
正直、小難しさを笑うことはとても難しい。私自身、こうやって書いていて、バカバカしいと思うこともあるけれど、むしろ小難しくなってしまうと自分が嫌になってくる。
バカバカしさは救われるが、小難しさは救いがない。なんて、いま書いてみたが、どうも無邪気さの欠けた表現に思えた。
さて、私たちは、どうすれば無責任でいられるのだろう。