129 今日はそれじゃないことを書く
あれについて書こうと思ったけどやめた
私は、昨季のドラマをいろいろ見ようとした。そしてほとんど見るのをやめた。その数少ない完走したドラマのひとつが「セクシー田中さん」だった。原作者と脚本家の間でいろいろ揉めたらしく(なにかを生み出す世界で揉めること自体は悪いことではないし、揉めない方がおかしい)、SNSで発信していたと思ったら、原作者である芦原妃名子は亡くなってしまった。こうなると、当事者でもなんでもない者があれこれ言うことは厳しいので、昨夜はここにいろいろ書きたいと思ったものの、やめることにした。
なによりも悲しすぎることだから。
今日はそれじゃないことを書く。そう決めたので。
それでも、別の話として、原作と二次的な作品(主に映像化)には、いろいろな難しいことが発生する。漫画原作をアニメにするのでさえ、かなり大変なはずだ。
私はいま、アニメ「キングダム」のシーズン5がはじまっているのを見逃していて、慌ててアマゾンプライムで1話から見始めたのであるけれど、これも、当初は原作漫画をKindleで読んでいた。だが、アニメがはじまったので以後、アニメ版しか見ていない。そして、映画版も見ている。
それぞれが、違う。それはそういうものだ、と思っている。
古い話だけど、映画「羊たちの沈黙」がメガヒットしたとき、原作者のトマス・ハリスのによる小説を私は先に読んでいた。これも映画になった「ブラック・サンデー」の原作者であることで、「映画より先に本を読んでおきたい」と思ったのである。そして、映画は映画として素晴らしかった。なによりもレクター博士を演じたアンソニー・ホプキンス、クラリスを演じたジョディ・フォスターがよく、原作から感じられないことを多く感じた。が、118分ですべてを描くことは当然ながらムリなので、原作にあったいい面がほぼごっそり抜け落ちてもいた。
ところが、この映画で大人気になったレクター博士について、原作者は、むしろ映画版のイメージに沿うように小説「ハンニバル」を書いたのである。したたかだと言えなくもない。
最近、映画化された「ゴールデンカムイ」。アニメ版を数話見たきりで続きを見ていないので映画はありがたいと思うけれど、ある週刊誌の映画欄には、人物の顔見せに終始して物語としては進まない、次作に続くのか、といった否定的な意見があって驚いた。すると、SNSでは、この映画版の原作再現度がとてもいいとファンたちには好評で、大いに受け入れられているようで、私はホッとした。
自分の好き嫌いはともかくとして、こうしたドラマ化や映画化が、否定的に批判されるのは、見ていて辛いものがある。そういえば、昔、『テルマエ・ロマエ』の映画化と大ヒットに、原作者(ヤマザキマリ)が、原作料はとても少ないといった話をして議論を呼んだこともあったね。
0から1を生み出す行為
アニメになった「サザエさん」は、原作である四コマ漫画(新聞連載)だった「サザエさん」とは大きく違う。そもそもが世相を風刺することが主だったはずで、なおかつ、これは戦後に人気だったアメリカの漫画『ブロンディ』の影響かもしれないが、若い女性主人公の、うっかりだとかとぼけた味で笑わせる(クスリと笑う)世界だった。それでは、ストーリーがないので、アニメ版にはそこはかとなくストーリーをもたせることになる。その段階で、もう世界は大きく変わってしまう。
だけど、原作者が亡くなっても、アニメはいくらでも続けられる。
当然ながら、無から有、0から1を生み出した原作者がいなければ、2も3も10も100もないのである。
さらに、複雑なのは、その原作も完全に「無」から生まれたわけではなく、さまざまな過去作品の影響を受け、現実の事件の影響を受けて生まれているため、要素を分解していくと、オリジナリティーはどこにあるのか、といった点で一筋縄ではいかない。
二次創作では、その特定の要素を拡大してしまう恐れがあり、それによって原作者の意図から離れていくことも起こりやすい。
そして、0から1を生み出していると胸を張って言えたとしても、それを世に問うときには、さまざまな人たちの協力の上に成り立っていることも事実である。
広い意味では、この世は、他人の褌で相撲を取り合うのである。パートナーや曲を変えてダンスを踊り続けるのである。狭い意味では、ほかの人にはできないことをすることが尊ばれる。そのせめぎ合いが軋轢となりやすいことも事実だ。
私も、できるだけ無から有を創り出したい。今朝、妻から我が家で飼っている犬を主人公として絵を描いてはどうかと提案されて、「それができれば最高だ」と返した。しかし、その道は、長く険しい。
そもそも、同じ絵を二度と描けない気がしてならない。何度でも描けるようにするには、練習が必要だ。できるだけシンプルな線で描いた方がいいかもしれない。
スケッチブックにあれこれといたずら書きをしているうちに、時間ばかりが経っていくのである。