375 東海道新幹線の思い出
弾丸列車と建設工事
東海道新幹線が60周年という。このCMを見て、いろいろ思い出した。
小さい頃、漫画雑誌の口絵で「弾丸列車」の話があり、先頭は流線型(ほぼ0系)で青い車体の列車が見開きでバーンと突っ走っていたのを鮮明に覚えている。「こんなの、本当に走るの?」と親に聞いた気がする。切り取って長くその絵を飾っていた。そもそも「弾丸列車」は満州鉄道時代の蒸気機関車による高速走行の話から始まっていたらしい(曖昧な記憶ですみません)。もちろん、その後の新幹線構想と多少は関係があるかもしれないが、直接は関係ない。動力がまるで違うし目標の速度も違う。
そして、新幹線の工事が始まった。当時横浜に住んでいたので、歩いて行ける場所で大々的な工事が行われており、学校では「近づいてはいけません」的な注意を受けたはずだが、もちろん悪ガキたちはそんな警告は無視だ。冒険に行くのである。泥濘んだ道。そもそもは雑木林だったところを開削している。「スゲー」のである。ただよくわからなかった。それほど近くへは行けなかったのだろう。
「試運転に乗れるかもしれない」騒動もあった。確か抽選で乗れるような話があって、学校で何人か実際に乗せてもらったのではないだろうか。
「行ってみようぜ」と再び冒険。すでに工事は終わっていて、試運転が始まっている。山を開削してそこに道を作り新幹線の上を通ることができる。その道から見下ろすのである。もちろん高い網で身を乗り出すことはできない。そしてやがて音がしてくる。聞いたことのない音だ。
その場所の新横浜寄りにはこのあたりで唯一のトンネルがあった。そこを通過してくる音が聞こえてくるのだ。そして遂に、姿が現われる。ゆるいカーブになっていてそれが顔を出し、あっという間に足元を通過していってしまう。「あっちだ」と大阪方面へ走っていっても、すでにその姿は遠い。
とんでもなく速いことはわかった。
この場所は新幹線に乗っても、見ることができて、後年、必ず山側の窓際に席を取ったときは「見える見える」と楽しんだものだ。ところがだんだん速度が上がっていき、100系ぐらいからはあまりにもあっという間で見過ごすことが増えた。東京駅から乗った時も、駅弁をすぐには開かず、そこを確認してから食べるのだった。
海側の景色も楽しかった。当初はみかん畑や茶畑や海が見えた。その後「騒音問題」が浮上したことで、騒音対策用の壁によって見えづらくなってしまった。また街の開発が進み、田舎っぽい光景がどんどんビルへ変わっていってつまらなくなった。
何回乗ったか覚えていない
そもそも、母方の郷里が神戸、父方の郷里が相生だったので、春休みや夏休みに東海道線に乗る機会があった。東海道新幹線以前の在来線特急「こだま」にも乗っている。とんでもなく揺れた記憶がある。特急の食堂車はこの揺れのせいで、汁物がこぼれるぐらいだった。ところが、新幹線の食堂車はこぼれない。多少の振動はあっても、かなり安心に飲食できた。この差は子ども心に大きかった。東海道新幹線の中ではワゴンで売りに来るサンドイッチとアイスクリームを食べるのが楽しみだった。食堂車は混んでいて1回か2回しか利用できなかった。
そして、なんといってもトンネルに入るときや、逆方向の新幹線とすれ違うときの、なんとも言えない衝撃を味わっていた。速さを実感できる瞬間である。
まさか大人になってから、仕事でしょっちゅう名古屋、大阪へ出張のために新幹線に乗ることになるなんて思ってもいなかった。何回乗ったのか覚えていない。数えられない。大黒屋で安い回数券を買って利用するようになるなんてね。一度だけ、東京から博多まで行ったけど、さすがに乗りすぎである。二度はなかった。
500系は見た目がとにかくカッコいい車両だったが、乗るとけっこう狭くて疲れた。やはり700系になってから乗り心地は格段によくなったと思う。疲れが減った気がした。
とはいえ、冬は関ヶ原あたりで徐行、台風や豪雨のときは愛知県で徐行あるいは運行停止もあり、あえなく余計な宿泊を余儀なくされたこともある。
最近では東海道新幹線が計画運休になることも増えた気がする。異常気象のせいもあるけれど、ある種の老朽化も影響しているだろう。これを根本的に直すとすれば富士川の鉄橋を含めて全面改修しなければならず、その間、運行を止めるなんてできるわけがない。第二新幹線が必要なのだろう、それがリニアなのだろう、とその点では理解をしているけれど。
私が子どもの頃に見た「弾丸列車」の夢のような、シンプルな夢はいまの時代には見ることはできない。リニアにはそこまでの夢を感じない。いや、小さい子たちは感じているのだろうか。スゲーと思っているのだろうか。
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