261 上手な文章には限界がある
よく「上手になりたい」と言うけれど
たまたまかもしれないが「もっと文章を上手になりたい」とか「いい文章が書けるようになりたい」といった言葉を目にする。謙遜もあるとは思う。noteを書くぐらいだから、そこそこの水準には達しているに違いなく、子どもの頃からSNSやチャットで文字の応酬をして育った人なら、それなりの表現力は身についているのではないだろうか。
もちろん、上手な文章、うまい文章、いい文章は存在する。たぶん。
そのためのステップもあるだろう。メソッドもあるだろう。気をつけるべき点もあるだろう。そういうものをひとくくりにすると、正直、言い出したらキリがないかもしれない。
これは、恐らく「語り」も同じかもしれない。「もっと上手に話せるようになりたい」とか「おもしろく話せるようになりたい」といった願望もきっと世の中にはそれなりにあるはずだ。そういうことを教えてくれる人たちも存在しているし、本もあることだろう。
私はそういう教室に通ったことがなく、実践あるのみで今日に至っている。確かに、いくつかのベーシックな文章読本は読んでいるけれど、大きく影響を受けたものはすぐには思い出せない。むしろ仕事の中で身近な人たちからの率直な意見「ここ、なんだかわかりにくいです」とか「ここはいいですね!」といった声に支えられてきた。「思い切ってここはバッサリ削って書き直しますか?」と明るく編集者に言われたこともある。ちくしょう、と思いつつ、同時に「やっぱりそこか」と納得もしている。弱点は目に付くらしいのだ。こっちの痛いところはわかりやすい。それが言語による表現の難しいところだ。いいところより悪いところが目立つ。子どもにもわかる。「そこ、おかしいよ」と。
そうして、なんとか上手になろうとする。その志はいいとして、実際に上手になっているのかどうかは、正直、誰にもわからない。
悪い部分が見えないから、いい文章なのだろうか?
そうではないと思う。
書きたいことをどう持ち上げるか?
文章なら「書きたいこと」、話なら「言いたいこと」がちゃんと伝われば、いいのである。そのための技術もある。学べば身につくこともある。周囲の人の声を聞いて修正していくのもいい。
しかし、一番大事なことは「書きたいこと」「言いたいこと」ではないか?
どれほど下手で間違いだらけだろうと、強烈な「書きたいこと」「言いたいこと」があれば伝わる。むしろより強く伝わることもある。
日常的に文章を書くようになると、このコアの部分を忘れてしまう。書きたいことはわかっている(つもり)、それをうまく表現できる(つもり)。
ところが、きれいで欠点の見つからない文章であったとしても、それだけでは不完全だろう。
やっぱり「書きたいこと」「言いたいこと」が伝わってはじめて目的を達成できる。
私の言い回しはおかしいけれど、自分なりに「書きたいことを持ち上げる」ことが大事だと考えている。書きたいことを最大限、自分で高く持ち上げるのである。重すぎて持ち上がらないこともある。軽いので簡単に持ち上がることもある。重すぎるなら、分解した方がいいかもしれない。軽すぎるなら、なにかを足した方がいいかもしれない。
伝えたいことを、きちんと自分の力で高く持ち上げておけば、多少、文章や言い回しに難があっても、多くの人たちに理解されるだろう。
持ち上げるといっても物理的にやるわけじゃなくて、あくまで言葉の上でのことだから、書きながら意識してやっていく。邪魔している言葉を消して、引き上げるのに役立つ言葉を足してみる。自分で「これを書こう」と決めたあとに、そうした作業をしていくことで、きっと伝わるいい文章になっていくに違いない。「推敲」と呼ばれている作業の中に含まれる。ただ、「推敲」と言ってしまうと技術的なことばかりに流されそうだから、自分としては「持ち上げるんだ!」と思ってやっている。もっとフィジカルなことなのだ。※追記 もちろんだからうまく持ち上がらないこともある。
鉛筆と消しゴムで原稿を書いていた頃と違い、いまは体力的にはかなり軽減されて、コピペも簡単だし、変換もあるし、AIもあるから、きれいな文章はすぐ書けるようになる。それでも、肝心な部分は自分の中から生まれるエネルギーにかかっていると、信じている。
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