73 小説「ライフタイム」 9 GTS
スケジュール
月刊誌づくりは、通常ならその号を出すのに1ヵ月使えるはずだ。しかし現実はそうはいかない。来月発行の号をいま作っていたら遅い。百ページほどの専門誌で、その五割は連載形式で決まっていて、残り五割を工夫して埋めていくことになる。雑誌なので、特集を毎号作りたい。とはいえ、特集だけで五十ページとはいかないし、もしやろうとすれば時間が足りなくなる。そもそも、営業の田所けいちゃんが嫌がる。営業もまたスケジュールが厳しいので、そうそう特集に合わせて広告を集められないのだ。
毎年十二号を出す。そのうちの大半は、定期的に入る特集が決まっている。営業は主にそのために動いている。第一特集と第二特集を企画することもあるが、さすがに少人数なので毎月、二つの特集を作るのはムリがあった。
少人数。つまり編集はぼくひとりである。あとは記者たちに頼んで記事を書いてもらい、さらに外部に発注するのだが、それも予算は決まっているので、会社のことをよく知っている書き手に集中しがちになる。
簡単に言えば、とにかく忙しいのである。
それなのにぼくは、日曜日の朝、五時に起きてお茶だけ飲むと、ガレージからクルマを出した。
正直、この頃のぼくは、ぼく史上もっともお金持ちだった。大した年収ではないものの実家に住み、そこそこの収入があり、いつも忙しくて使う暇はあまりなかったので、それがクルマに向かった。
もっともこの時に新車で購入したのは七代目、日産スカイランGTS。ツードアクーペである。納車の日は仕事で、代わりに父親が受け取って乗り回し、それまでローレルを乗っていたのだから、それほど印象は違わないはずだが気に入ったらしかった。
ガレージは一つしかないので、父親のローレルは手放したので親子で共用するのである。
だからあらかじめ、日曜はぼくが使うことを言っておいた。
「誰と?」
いつも、なにも言わずクルマを使わせてくれていた父だったが、この時だけ、なぜかそんなことを聞いてきた。
「別に、いいじゃん」とぼくは答えなかった。
アパート
松本奈美江は、戸越銀座と呼ばれる名の知れた商店街に近いアパートに住んでいた。一人暮らしらしかった。横浜からは第二京浜を五反田方面に向かう。日曜の早朝で一時間ほどで目的地に着いた。
マニュアル車である。ギアをニュートラルにしてサイドブレーキをガリッと引くと、しばらくアパートの前で停車していたが、エンジンを切ろうとしたとき彼女が出てきた。
外階段のある二階建てで、階段を音を立てて下りて来た。
ポツン、ポツンとフロントガラスに雨滴が落ちてきた。
「おはようございます」と彼女は言う。「傘、いるかな」と続ける。ぼくが返事をする前に「取って来る」と言ってまた部屋へ戻っていった。
鮮やかな緑を中心とした花柄の分厚いセーターを着ていた。ジーンズだ。ただし裾は少し短くくるぶしが見えていた。すぐに戻ってきて助手席に乗り込んだ。
「新車のニオイがする!」と彼女は言った。
つい最近、シートからビニールを引っ剥がしたばかりだ。ぼくはまだ三回ぐらいしか乗っていない。それも自宅の周辺や買い物で乗っただけで、都内を走ったことはなかった。
ドライブ
ぼくはそれほどたくさんの恋愛経験はない。学生時代の付き合いは淡いものばかりで、特定の女性と長く付き合ったことはなかった。バレンタインからクリスマスまでの間で生まれてその間に消えていくような恋だ。それまで彼女とクリスマスを過ごしたことはなかった。初詣に行ったことはあるが、その時はバレンタインデー前に終わっていた。
淡い恋のデートは、喫茶店、ファミレス、映画館ぐらいなので、こうしてクルマの助手席に彼女を乗せて、どこかへ行くのは生まれてはじめての出来事だった。
思えば免許を取ってから助手席に彼女を乗せたことが一度もないのだ。
それがはじめて自分の意思とおカネで購入したクルマ(父親のクルマを下取りに出しているとはいえ)でいきなり、彼女を乗せることができて、「人生、これからだな」とほくそ笑んだ。
「なんか楽しそうだね」と奈美江。
「え、そう?」
「うん。運転、好き?」
「そうでもないけど」
彼女を乗せて走るのがうれしいだけだ。運転は正直、それほど得意ではない。そもそも小学校の通信簿に毎回「落ち着きがありません」と書かれていた。まったく落ち着きのない人間として育ち、教習所でも「しっかり前を見て」と何度も言われた。
父親は実に優秀なドライバーであった。若い頃、勤務先の社長を送り迎えしていた。総務、配車、倉庫などを担当し、繁忙期は自らトラックも運転した。フォークリフトの免許まで持っていた。事務は好きではない。運転が大好きなのである。
ぼくはそれに比べるとまったくダメなので、せっかくのGTSでも、どんどんほかのクルマに抜かれていく。
金港ジャンクションから横浜駅東口方向に出ると、そのまま街中を関内駅方向へ行く。雨は本格的になっていた。
「雨になっちゃったな」
「公園って感じじゃないですね」
典型的な横浜デートなら、山下公園、港の見える丘公園、山手十番館、あるいは元町、それともニューグランドホテル方向、ホフブラウ、センターグリル、スカンディア、あるいは中華街。
いや、ぼくはその時、行くべき場所を決めていた。
「ハンバーグでも食べようか」
雨の港街をクルマでざっと通過すると、ぼくはクルマを北へ向け保土ケ谷へ向かった。
(つづく)
──この記事はフィクションです──
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