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159 センチメンタルな話は書かない

昔の映画で「おセンチ」と言うフレーズ

 「わたし、おセンチになっちゃった」みたいなセリフが、1960年代頃の日本映画にあったような気がする。水玉のワンピースを着て髪をパーマネントにした若い女性は、口を開くと自分のことしか言わないのである。「わたし、きょうはそんな気分じゃないのよ」とか「わたし、きっとあなたならやってくれるって思ってたのに」とか「わたし、信じてたんだけどな」とか。
 そういう映画に出て来る男優は、角刈りみたいな、妙な短髪だったりして、バラクーダー風のジャンパー(ブルゾン)を着ていたりもした。前がファスナー式の上着はなんでもかんでも「ジャンパー」だった気もする。このjumperという呼称は1800年代にイギリスですでにあって、頭から被るタイプの服全般を指していたらしい。ブルゾンはフランス語から来ている。
 そんなことはどうでもいいのだが、自分の中で「センチメンタルな話は書かない」と決めている。自分は涙もろいので、あらゆる機会に「おセンチ」になるわけだけど(この用法で正しいのか不安だ)、そんなことを綴ったところでなんにもならない気がしているからだ。
 代表的な書かない話としては、失恋があるし、逆に先日のドラマ「舟を編む」ではないが、「恋」が「愛」になっていくときだったりもする。さらに飼っていた犬の突然の死とか、そのあと何日も経ってからとあるラーメン屋でラジオから流れてきた曲を聴いて泣きながらラーメンを食べた話とか(もうだいたい書いちゃっているけど)、そういうことは、自分では書かないつもりで生きている。

かといってハードボイルドもね

 センチメンタルな話を書かないからといって、じゃあ、ハードボイルド一辺倒か、と言えばもちろん違う。ハードボイルド小説はいくつも読んできたし、ミステリ小説、いわゆる本格推理小説よりも、どちらかといえばハードボイルドが好きだった。
「ここで読者に挑戦状。果たして犯人は誰か?」といった感じの作品を読んでいた時期もあるものの、いまはまず読まない。謎解きに興味を持てなくなってしまったのである。正直な話、このnoteを一度でも読まれた方にはおわかりだろうが、私はいろいろな本を並行してちょくちょく読む派なので、ミステリでは、「犯人はおまえだ!」となったとき、「こいつ、誰?」となってしまうことがある。覚えていないのである。
 そもそも実生活でも名前と顔を覚えられない人間であって、小説においても誰が誰だかわからなくなることがあるし、ドラマや映画を見ていても「こんな人、出てたかな」と混乱するタイプなので、恐らく、これまで読んだ作品や見た作品も、とんでもない勘違いをしたまま記憶していることがある可能性は大きい。

 昨日書いたように、過去に毎月10冊以上の本を読み、5本以上の映画を見ていた時期があって、それをノートに記していた。久しぶりにそのノートを見たら、自分としては「嫌いな作品」と思い込んでいたのに大絶賛しているのを発見し、「おいおい」と思わざるを得なかったのだ。
 どうしてそうなるのだ。記憶の操作なのか。私は実は宇宙人にさらわれて脳の中を一回、洗濯機に入れられたあとに地上へ戻されたのか? あの頃、そんなに絶賛していた作品を、どうしていまの私は「嫌い」なのだろう。
 ハードボイルドの作品の多くは一人称あるいは単一視点なので、比較的、登場人物で混乱する可能性は少ない。なおかつ、何十もの名前が交錯するような作品は少ないから、自分としては読みやすいのだろう。
 とはいえ、ハードボイルドはかなりセンチメンタルなのである。チャンドラーの名作『さらば愛しき女よ』や『長いお別れ』は、「おセンチ」なのである。ただ、その心情を文字にしていないだけで、シチュエーションとしてはめちゃくちゃ感傷的だ。そのせいか映画版はどれも見てられない。
 それよりも圧倒的な力であるとか、抜き差しならない状況の中で、死力を尽くす冒険小説の方がいい、となっていったのだと思う。少なくとも古いノートを見ていて、たぶん、そうだったと推察する。
 ラドラム『暗殺者』(ジェイソン・ボーン・シリーズ)とかフォーサイス『ジャッカルの日』は、まったくセンチメンタルではない。少なくとも原作小説にはない。なぜか映画やドラマになると、センチメンタル要素を盛り込むことが多い。たぶん、そうしたことが好きな観客にも見て欲しいからだろうけど。
 最近見た映画『死刑にいたる病』(櫛木理宇原作。白石和彌監督)は、その点、まったくセンチメンタルな要素の入らない作品だった。原作は読んでいない。とんでもなく殺伐とした話である。こんなに殺伐としていいのか、と心配になるぐらいだ。
 だったら一番の好みなのかと思いきや、むしろこういう映画こそセンチメンタルな要素を少しは欲しいと感じてしまう。勝手なものだ。
 一方、岩井俊二監督作品(Love Letter、スワロウテイル、リリイ・シュシュのすべて、ラストレターしか見ていないけど)は、全体としてハードボイルドな感覚がありながら、適度なセンチメンタルがあるような気もする。というより、先入観に比べて案外とドライで好ましかった。
 たぶん、こういうことって、すべて距離感なのかもしれない。そうだ、距離感だな、といまこうして書いていてたどり着いたのだった。

夢で見た植物


 

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