343 創作と開発
作品の書き方を開発する
小説を書くようになった初期、だいたい一直線に書いていたと思う。あとで推敲するとして、とりあえず最後までバーッと書く。この時はまだ若かったしバカだったので、「書けるじゃん」と喜んでいた。
だけど、やっぱり必ずそうはいかなくなる。
不思議なもので、これは単に自分だけの話だと思うけれど、作品ごとに書き方も開発しなければならない。同じ書き方をしても、うまく行かなくなる時が来るのだ。
傍から見れば、同じようにパソコンに向かって文字を綴っているだけなので、作業として特別変わったことをするわけではない。
千葉雅也氏は、noteで自身の執筆過程についても詳しく記している。
Scrivenerは、主にApple製品ユーザーが使っている執筆アプリで、初期の頃にWindows版を何年か私も使っていた。当時はどうしてもMac向けの機能が充実していくのにWindows版は置いて行かれていて、途中で諦めてしまった。使用感としては、「これはメチャ便利で使いやすい」だったのだが。
とくにPCで執筆する場合の最大の利点はデータをすべてデスクトップに広げて横断的に眺めながら作業できることだと思う。Scrivenerはアウトライナーでもあるので、メモをどんどん入れていき、まとめられるところからまとめていくことができてしまう。
だけど、私は結局、使い切れずに諦めた(バージョンアップにもついていけなかった)。
いまでは、シンプルにただひたすらテキストで執筆している。テキストならPCでもスマホでも書けるからだ。ATOKパスポートのおかげで、変換についてはPCでもスマホでも同じ辞書が使える。そのテキストをクラウドに置いておき、いつでもどこでも執筆を実現した。
道具はなんでもいい、と思う。が、自分の書きたい作品を書くために必要な道具とその使用方法を開発していかなくてはならないと感じている。
バーッと最後まで書いて推敲するのは理にかなっていて、多くの人が採用していることだろう。だけど、いま取り組んでいる作品は、それとは違う方法を取っている。テキストに書いた原稿を分解していくつかのテキストデータに分けて保存し、それぞれに手を入れながら執筆している。
それがいまのところ、今回書いている作品には合っているっぽいのだ。もっとも、結果が大事で、本当にそれで最後まで完成できるのかはいまのところわかっていない。以前にやっていた方法に戻すかもしれない。やり慣れた方法がいいかもしれない、と思ったりもする。でも、それじゃ、ダメな気もする。
noteを書くようになって変わった部分
noteは30分一本勝負でアドリブで書く。それでも、これまで小説や詩を書いているので不思議な気もするのだが、そもそも「完成」を目指していないからできたことだろう。
ポッと浮かんだものを文字で表現するにあたって、レポート形式がいいのかエッセーがいいのか小説がいいのか詩がいいのかは、直観で判断する。アドリブだから。
もちろん失敗もある。毎回、失敗の連続、と言ってもいい。
「あー、今日もダメっぽい」と、だいたい1000字ぐらいに感じている。ちょうどこの段落あたりだ。「こりゃ、もう中途半端に終わるな」と。
だけど、noteについてはそれもまたよしとする。
なぜそうしたのかと言えば、拘っているのは30分一本勝負だけだから。あまり時間をかけないで終わらせること。
もしも間違えていたらあとで直す。これまで書いた記事も、あとで読み返して修正している(その時間は入れていないけど)。できるだけ最小限の修正に止めている。「バカだなあ」と思うこともあるが、そのまま出す。
これはひとつのやり方に過ぎず、しかも誰にでもあてはまるものではない。つまりなんの参考にもならない。
唯一、言えることがあるとすれば、創作にはその方法を開発することも含まれているよね、ということぐらいである。