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298 私の時間4

ポンと音を立てて

 Kさんは、スーツに足はストッキング。すべりやすい廊下を経て、慌てて書斎へやって来た。そして私が見逃していた物を発見すると、「ちょっと」と言ってバッグも手土産も放り出し、私を邪魔者のように脇へ押しやる。
 なにか言葉を発しなければと思っている間に、彼女はT氏の背後へ回り、ジャケットを脱ぎ捨てる。白いブラウスがまぶしい。華奢な体つきの彼女だった。
「どっこいしょ」と彼女は背後からT氏の脇の下に手をやり、両手をがっちりと鳩尾あたりで組んだ。そして「えいっ!」と甲高い気合いを入れるとT氏を持ち上げようとする。
「な、なにをしてるの、ムチャだよ」
 私の言葉など聞いていない。死体をどうするつもりなのだ、とただただ私は焦っていた。彼女は現場を荒している。あとで鑑識が来たとき、大問題になるに違いない。遺体に触れるだけではなく、持ち上げて振り回そうとしている。そもそも華奢な彼女にそんなことができるものだろうか。
「ポン!」と、そのときワインのコルクが抜けるような音がした。
 テーブルに白いぐちゃぐちゃしたものが吐き出されていた。
「むうううう」とT氏がうめき声を上げた。
 餅を喉に詰まらせていたのだ。
 まだ死んではいなかった。
 彼女は、私の見逃していた物を最初に見つけていた。T氏のうつ伏せになっていたテーブルには、木目の皿があり白い粉が残されていた。
 なんのことはない。T氏は私たちが来るからと、茶菓子を用意していたのだが、どうしてもひとつ最初に食べておきたくて口に入れた。
 そのとき、チャイムが鳴ったのだ。
 私たちが予定より少しばかり早く到着し過ぎたからだ。
 餅菓子を喉につめて悶絶していたところに私が駆け寄り、そしてKさんがすぐさま状況を判断して救助した。
「合気道を少しやっていたんです。それに救護の訓練を受けたこともあったし。ボランティアで老人介護施設へ手伝いに行っていたこともあったから」とKさんは、あとで教えてくれた。
 T氏は何事もなく無事である。ただし、原稿はまったく書いていない。
「君なら手伝ってくれそうだと……」と私を頼るつもりだったことも判明した。「だって、経済に詳しそうだし、私のコメントもうまくまとめてくれていたし」。
 いったん、編集部に持ち帰ることになった。
「じゃ、やってくれますか」と、今度はFだけじゃなくKさんが私に迫る。「これぐらい、余暇みたいなものでしょ」と編集の連中は思っている。
 私はKさんのことが気になる存在になっていた。三十歳を過ぎても結婚相手は見つからず、恋人らしき女性もみな立ち消えになっていた。もっとも親しく毎週のようにドライブをしていた女性からは「このまま続けても将来が見えない」と言われてしまっていたし。
 要するに彼女は彼女の父親が認めるような男と付き合って結婚したい。だが私は彼女の父親の好きじゃないタイプだったようだ。
「じゃ、うちの父とゴルフ、やれます?」と言われた。そんなものやれるか、と思った。そもそも私はゴルフなどやったことはない。そもそも収入が足りない。だから社員への誘いに乗ってしまったとも言えるけれど。
 いい恋愛をしていない。縁が無い。これまで、同業者は恋愛対象とは考えないようにしていた。気軽に付き合える相手とは思えなかった。
 それでも、Kさんはもしかすると。
 ただでさえ削られている私の時間。ここにT氏の原稿づくりなど入れていいものだろうか。いや、Kさんが担当でこれからもずっと関わることになる。もしかすると、そこになにか縁があるのでは? 年がやや離れているけれど……。
「わかりました。やってみましょう」
 バカだなあ、と自分でも思う。これは寅さんのやるようなヤツだ。でもまあ、いい。やれるところまでやってみよう。これもまた私の時間なのだから。
「ほかならぬ、Fさんにはお世話になっていますから」などと、自分をそしてみんなを誤魔化しながらも、その仕事を引き受けてしまった。
 その後、本は完成したのか、Kさんはどうなったのか、私はどうなったのか。それはまた別の話。

勝手に愛着がわく。



 

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