44 誰も見たことのない鳥
遊びと仕事
彼女が言う。
「昨日ね、小学校の裏の柿の木でね、おもしろいことがあったの」
「小学校って、近くの?」
「そう。あそこ。裏に大きな柿の木があるんだけど、枝がけっこう柵からはみ出して道路の上に出っ張ってるわけ」
二人でその近くのスーパーへ時々買い物へ行く。数日分の食料を買うので、手が四つ、バックパックが二つ必要なのだ。
一緒に住みはじめてまだ半年。彼女のアパートに転がり込んだようなもので、いま仕事を探しているところだ。彼女は仕事があって、その収入に頼っている。ぼくは貯金を崩して生活費に充てている。
先のことはわからないけど、いま、自分たちは幸せの領域に足を踏み入れたと実感していた。こういう幸せは、そうそう味わえないこともわかっていて、それがお互いにそこはかとない不安の種にもなっていた。
先のことはわからない。いつどうなるかもわからない。だけど、いまは。
「昨日、帰りに通り掛かったら、道路に柿の実が三つぐらい落ちているの。葉っぱも落ちている。そんなに強い風は吹いてないし。どうして、と思ったら柿の木の上の方に真っ黒なカラスが止まっていて、私を見ている」
「カラス、ね。最近はあまり見なかったけど」
カリタのペーパードリップでコーヒーを抽出する。ぼくがゆっくり回すようにお湯を注ぐ。ポタポタとコーヒーがポットに落ちる。香りが部屋に広がる。
秋の日射しが座卓まで伸びている。それなのに外の気温は二十四度。夏の終わりがいつまでも終わらない。
「カラス、また増えている気がするの。私はよく見るよ」
あまり空を見上げなくなったな、とぼくは思う。
「でさ、私がなにもせずに眺めているだけってわかると、カラスが柿の実を落としたの。嘴でくいくいってやって。葉っぱも落ちるの。すごくない?」
「遊んでいるんだろうか。カラスって遊ぶって言うよね」
「違うよ、食べるつもりなんだって。落ちたら実が熟しているかどうかわかるし、地面にぶつかって割れることもあるでしょ。食べやすくなる」
「そうかな、そこまで見たの?」
「たぶん、私が見ている間は、そこまではしないと思う」
「ふーん」
カラスだって仕事をしているんだね。とぼくは言いかけて言わない。
遊びのように、仕事ができればいいのに、とふと思いながら。
誰も見たことのない鳥
「この地球の上を、ずっと飛んでいて、誰にも見られたことのない鳥がいるんだよ」
ぼくは話を変えた。
「え? なにそれ」
彼女はコーヒーにクリームを入れる。ぼくは入れない。
「鳥って恐竜から枝分かれしていまも残っている生き物だって言うでしょ。その中に一生を空で過ごす種類がいる。ずっと飛んでいるので、誰にも発見されない」
「いやいや、それはないな」と彼女は笑う。
笑うとぼくの好きな顔になる。
「どうやって眠るの?」
「仲間の上に乗っかって寝るんだ。どうせ短時間しか眠らなくてもいい。飛びながら脳の半分を休めているし」
「餌は?」
「空中で手に入る。小さな鳥を食べる」
「うえっ、残酷。共食いじゃん」
「人間が文明を持つ以前から、そうやって生きてきたんだ。海の中で鯨が小魚を食べるみたいに、その鳥は空中で小さな鳥の大群を襲って、腹一杯食べる。そして交代で仲間の背中で眠る」
「どうやって卵を産むの? あ、わかった、背中に産み付けるのね?」
「正解」
いただいたお菓子はマドレーヌではなかった。そこはマドレーヌがおいしい店だったので、箱を開けるまでマドレーヌだとばかり思っていた。おいしいけれど、マドレーヌほどではない焼き菓子をぼくたちは食べた。
「あ、待って。その話、変。だって、誰にも見られない鳥なのに、どうしてその存在がわかるの? 誰かが見たからでしょ?」
ぼくはポットに残った珈琲を二人のカップに分ける。
「あ、そんなにいいのに」と言いつつ、彼女はクリームを足して飲む。鬼の首を取ったような顔をしている。
最初に出会った頃、彼女はそんな表情をよく見せた。彼女はぼくの先生だったから。ぼくの間違いや欠陥を指摘する役割だったから。指導するよりも、こちらの痛いところを突くのが得意な人で、いまもその才能を活かして個別学習の講師をしている。
「ね、どうして?」
「どうしてだろう」
「うそ、答えてよ。少し魅力的だったんだもの、その話。ずっと空を飛び続けて一生を終える鳥。誰にも見られずに秘かに存在する生命」
「ふふふ」とぼくは笑う。彼女も笑う。
「カラスが柿の実を落としたら、たくさんの生き物が喜ぶわね」
彼女はそう言って、窓の外を見た。