206 義母の逝去
たくさんの心配をかけた
夜10時半頃だろうか。
私と妻は通常、10時前に布団に入ることにしていた。なんでも、10時から午前2時ぐらいまでの間に就寝していることによって分泌される「何か」が人間にとって重要らしい、といった話があり、その「何か」をいまでは思い出せないものの、実際その頃に寝付いた方が自然に朝の5時前後に目が覚めるのでリズムがいいのである。もっとも、愛犬もその頃に寝ることを切望していて、たまに起きていると(映画がもう少しで終わる、など)、寝ようよ、と催促に来るのである。
しかし、昨日は10時半頃から1時間以上、布団の中で妻はスマホを操作していた。極めて珍しいことだから、「ああ、亡くなったのだな」と感じた。
翌朝、「ゆうべ、亡くなったって」と教えてくれた。
かなり前から歩けなくなり、さらに食事ができなくなり、寝たきりで点滴といった状況だった。それでも一時、かなり危険なはずだったが退院してまた施設に戻っていたのである。それが、かなり厳しくなり入院し、今度ばかりは「長くて今月いっぱい、早ければ今週中」と余命を宣告されていた。
病院から、郷里で面倒を見てくれている義妹に「危篤」の連絡が入って、急いで駆けつけたそうだが、すでに亡くなっていたとのことだ。94歳だった。一般的には大往生と言っていいだろう。
もっとも、意識のはっきりしていた昨年秋には、生まれ育った郷里から親戚が数人やって来て言葉を交わしていたというし、妻と娘も会いに行っていた。娘は一時期、義母と生活していたこともあった。
娘が東京で暮らすことについて、義母はかなり心配もしつつ、ホッとしてもいただろう。私もそこそこ年齢を重ねたので、子どもの面倒を見る大変さは想像がつく。
さらに、私の仕事の不安定さ(超低空飛行で生きている)も察してくれていたようで、毎月のようにお米や鮭や酒を送ってくれていた時期もあった。もちろん娘(義母から見れば孫)に食べさせたいのだろう。
寒い地域から送付するので、一時期、冷凍ではなく送ってきたことがあって、大半が食べられなかったこともあった。その後、必ずクール宅急便で送ってくれる。ところが、妻によると「冷凍庫にどれぐらい置いていたのかわからないのよ」と、せっかくの魚介類も食べることが難しい場合もあった。
とはいえ、大半はおいしくいただき、我が家はその時、毎日がパーティーのように(大げさだけど)豪華な食卓なのだった。いろいろ、いっぱい心配をかけてしまった。
留守番の日々
私は行かないのである。行くべきなのだが、優先順位として、我が家で妻の故郷へ行く必要性を考えたとき、私が留守番するのが最善である。愛犬の面倒を見なければならない。この子(犬)は、先天的な巨大食道症と診断されて保護団体も手を焼いていたのを預かることになった経緯もあり、すっかり分離不安症なのである。一番好きなのは妻であるが、私だって少しはマシだと思ってくれているようなので、一緒に留守番をするのである。
義父の逝去は、2016年の1月だった。90歳だったはずだ。この頃、保護犬を預かっていたのだが、その子は繁殖犬でとても大人しく、近くにある犬専用施設に預けて、私も冬の故郷へ行った。妻、娘と三人で旅をしたのは、いい思い出になった。
娘が成人する前には、三人で旅行したことは何度もあったけれど、忙しくなると、そうもいかなかった。
義母は、暖かい春の日に逝った。折しも桜の満開といったニュースが聞えてくる。
家族が減っていく。義妹は郷里でひとり(結婚して家族はみな元気だが)、義母のいろいろな手続きをしていくことになる。妻も、折を見て手伝いに行くことになるだろう。私が行っても、なんの役にも立たないのである。施設に入って長いものの、実家も残っていて、そこには大量の物がある。それをどうするか。そもそも実家をどうするか。これから、しばらくは落ち着かないだろう。
こういうことが、少なくともあと2回は起こりそうなので、こちらも覚悟はしなくてはならない。
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