360 大器晩成
いよいよ晩どころか真夜中
昔、「君は大器晩成だね」と言われたことがあった。褒めているのか貶しているのかよくわからない。少なくとも当時は「いまじゃない」と言われたようなものだった。昭和的に言えば「ナウくないね」みたいなことだろう。あー、いま書いてみて、絶対口にしたくないな「ナウい」。当時も好きじゃなかった。いま死語になっていて、本当にうれしい。
もっとも出版業界の中でも泡沫的なところにぶら下がって生きてきたので(あ、それは私のことで、私に関わった業界のみなさんはみなスゴイんですよマジで)、流行に乗ることはとても大事なことだった。少なくとも電通博報堂的な最先端にいないとしても、一周遅れにならない程度に流行に敏感じゃないとダメな世界だった。
「これからはこれだよね」とか「いまはこれが来てるよね」みたいなまことしやかな嘘はいまもどこかで囁かれていることだろう。
ただ、団塊ジュニア世代を追っかけていた時代を最後に、その後は確かにZ世代はいるけれど、もう派手に流行がどうたらこうたらって言うのは、なんだか違うんだよなあ、となってきた気がしている。それは恐らく、ボリュームの問題なんだろう。流行を追うことによる経済的な効果が少なくなってきたから、別に流行なんてどうでもいいよ、となってくる。
少子高齢化によって、高度成長期にあったような流行の波も、きっと穏やかな凪状態になっていくのかもしれない。もちろん高齢者マーケットは賑やかになるかもしれないけど、そこはほら、年金みたいに収入の上限が決まっちゃっている、可処分所得に限界のある人たちだし、ローンを組んでまでなにかを買う人たちはほとんどいないだろうし。
そして私も、そうこうしているうちに「晩成」どころか、真夜中をすぎてもなお、まったく「成」とはいかないままである。つまり、かつて私に「君は大器晩成だね」と言った人の予言は大ハズレだったわけだ。「大器でもねえし、晩成もしねえし」と、路上でしゃがみ込んで毒づきたくもなる。
ちなみに、この「大器晩成」は老子の言葉から来ているそうだ。
もう少しで1周年
話は変わるが、今日、このnoteを書いていて、番号が「360」となっていたので、「あー、いよいよ1周年が来ちゃうなあ」と感じている。
これが最初の記事。昨年の9月24日に書いている。
今年は閏年なので、366日目の9月23日が「微睡みの中で恋をして」の完結である。その先のことは、いまの段階ではなにも決めていない。とりあえずそこを区切りとすることだけ決めている。
衝動的にはじめたのだから、1年続いてよかったね、といった感じだろう(まだ数日あるけども)。これからしばらく、考えてみよう。
この1年を振り返ると(まだ数日あるけども)、絵を描いてみる、それもメディバンでデジタルで描くことにハマって(1日数十分しか集中できないけど)、小説もこの場で少し書いてみて、とうとう詩まで書いてみた。やりたいことはやったなあ、と思ってもいる。
ありがちなことだけど、今年の9月24日には「微睡みの中で恋をして2」をはじめる、ということなのかな。あるいはタイトルを変えるか。いやタイトル変えると連続性が少し損なわれないか? いや連続性は番号でわかるだろう。あるいは日付で。じゃ別のタイトルを考えるの? それもどうかな。「2」でいいよね、といったことを脳内で議論している。結論はまだ出していない。
というわけで、ちっとも大器でもなく晩成もしないままに、きっとこんな感じでゆるゆる漂い、ふらふらぶらついていくのが自分には向いている気もしている。