322 不安を直視しない
逃げるわけではなく少し斜めに
とうとう「南海トラフ」。そして昨日も神奈川県震源の地震。今日も各地で地震。では、日本はどれだけ地震が起きているのか。気象庁の震央分布を見て見よう。ああ、もうこんなにあっちこっちで毎日、それなりに地震があるんだなあ、と思ってしまう。
現実を直視しなさい、と言われることは多い。とくに私のように幻想的に生きている人間は現実をできるだけ丁寧に脇に置いておく。現実に起きていることはもちろん切実で、大変なことなのである。わかっているけれど、私はそれを直視するのが苦手だ。理由は明らかで、この世で起きているすべての事象を知ったとしても、私に出来ることは限られているからだ。
無力な人間を装っているわけではないし、ただ逃げているわけでもない。直視すると、どうにもならなくなるからあえて少し遠くから、あるいはかなり斜めの角度で見る。
「そんなことじゃ、ダメだ」と言う人もいる。そう思う人はそうすればいい。私はそうできないのでしない。そうできるような人になろうと思ったことは、これまで一度もない。
それでも現実は当然に自分の周辺にあって、それを忌避できるわけではないから、それなりの対応策はしているつもりだ。きっと十分ではないだろう。どこにすべての現実に対応可能なほどの準備を整えている人がいるというのだろう。
現実は、常に、弱いところを突いてくる。どれだけ万全に対策を講じてもなお、どこか弱いところにガツンとやってくる。それが現実である。
過去に起きた事象について「どうしてこうしなかったのか」「ああしていれば防げた」と批判する気持ちもわかる。その反省の上に未来へ向けた対策を練るのも理解できる。それでもなお、現実は、そうやって完璧に防御しているはずのところへ、易々と襲い掛かる。
「予測できなかった」「計画していなかった」「計画はしていたが実現するのが遅かった」などなど、弱いところはいっぱいあって、また将来の視点から批判されるだろう。
いまを生きる
対策を職業にしている人、そうした役割を担っている人を除けば、私たちは一緒になって大騒ぎしない側にいた方がいい。大騒ぎをする側には、過去のさまざまな例を見ても確かに一理はあるのだけれど、一緒に騒いだからといってどうなるものでもない。
結局はいまを生きるしかないのだから、できないことまで引き受けても苦しむだけだろう。どこまでやれるかは、もちろん挑戦していいことだから、やる気のある人はどんどん挑戦していい。それによって生き残れば、その人の勝利だ。
だけど、何もしない人は勝手に死んで行くのだろうか?
天災の被害については、対策をどこまでしたかによって生死の境が別れそうな気がするものの、実はその境は判然としていない。どれだけ家に備蓄をしたとしても、家にいないときに被災すればその備蓄は自分にとっては意味をなさない。誰かにとって役に立てばいいのだが、果たして誰が知っているのだろう。
核シェルターの話を思い出す。地下にシェルターを作ったとしても、そこに入っていなければ生き延びられない。たとえ生き延びたとしても、いつか外に出なければならず、その時に最大の危険が襲うことには変わりがない。きれい事を言えば「そもそも戦争にならないように努力しよう」だろうけど、こればっかりは個人の力を超越している。
天災と戦争を同列にすることはムリがあるからこのぐらいにしておくけれど、災害についての備えは、自治体が主張している範囲でやっておくことは当然だろう。それぐらいのことはしておきたい。もちろん、それで完璧なわけはないし、自分の命、家族の命、近隣住人の命をちゃんと守れる保証はない。
保証を求めないこと。自分の人生に保証がないのと同じで、世の中の大半のことには、万全な保証は存在しない。保険会社の提供するサービスの多くは金銭的な保証にすぎず、「ないよりはあった方がいい」。CMでは「これで安心」と言う。そんなわけない。なにをやっても不安はつきまとう。
その不安を正面から見ないでおくことで、いまを生きることに専念できるのではないだろうか。