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373 努力の甲斐

苦労は買ってでも?

 若いときの苦労は買ってでもしろ、なんて言葉があった。最近は聞かないのだが、たぶん自分がもう若くないからだろう。もう、そんな説教をくらうことは永遠にない。ざまーみろな感じ。若い頃はいろいろ言われるわけだけど、そのうちひとつかふたつは「なるほど」と役に立った気もする。ただし、誰にいつ言われたのか、完全に忘れている。若くなくなることは、そういう便利な記憶構造になることでもある。いろいろざまーみろな感じだ。
 たとえば努力って言葉が好きな人と嫌いな人がいる。「努力しろ」と言われるのは嫌だが、自分で勝手に努力するのはぜんぜん構わないと思っている私であるけれど、そういうときふと「努力の方向性が違うんじゃないの」と言われてしまうだろうなと感じる。これは言われたわけじゃなくて、自分で感じているのである。
 それは、努力したことが、結果として満足できていないからだろうか。いやそれは、努力した甲斐が第三者にもわかるように提示されていないことが問題な気がする。人は手にとって確かめられないものを信じない。
「これだけ努力したんですよ」「なになに。どれどれ。どこが?」「いや、これが」「ぜんぜんだめじゃないか。努力の方向が違うんじゃないの」といった感じ。相手が、こっちの努力の結果を認めてくれない限り、こうした残念なことは起こる。ってことは、努力にも二種類あって、自分で勝手にやる努力と誰が見てもわかる結果が伴う努力ってことになる。前者より後者を選ぶべきだろうか? でもそれは結果論だからな。
 こうして考えると「苦労は買ってでも」も同様で、その苦労がのちに第三者にもわかるぐらいの成果となっていないと、苦労の方向を間違えたと言われてしまう気がしてならない。
 努力とか苦労とか、若さにつきまとう世界も、結局は結果しだいってことになってしまうのは、私はあまり好きじゃない。
 同じ努力をして、同じ苦労をして、結果の出た人と出なかった人では雲泥の差になるというのなら、そもそも、そうした世の中の構造が間違っている。だけど、現実にはそうなのだ。強化選手に選ばれた人が全員メダリストになるわけではない。ドラフト1位指名の選手が全員、歴史に名を刻む名選手になるわけではない。
 たとえば、私が子どもの頃によく見せられたのは、王貞治が一本足打法を練習して畳が擦り切れたみたいな話なんだけど、こういうのって明らかに間違った指導となりそうで、現代ではとても怖い。大谷選手と同じ練習をこなしても大谷選手になれるわけではない。下手すると腕の一本、足の一本、折れてしまいかねない。そういうものですよね、世の中は。
 カーレーサーになりたくて、その辺で事故るような話ですよ。

「騙されたと思って」に騙される

 バブル頃からずっと今日まで続く投資に関する話もこれに似ていて、「あなたは間違っている。私の言うとおりにすれば楽勝だ」みたいなことを言うヤツが必ず出てきて人を騙す。投資においては、利益を出せない人は「失敗」なのである。大多数の人は多少の利益があったとしても、上を見れば大成功しているヤツも少数いるわけで、それと比較すればぜんぜん大したことがない。だから、実は損していないだけでも成功しているのに「自分が間違っていたのかな」と思い込んでしまう。そこにつけ込む人たちがいるわけだ。投資は一定数が必ず損をするようになっているわけだから、「みんなで老後を楽しくしようぜ」なんてかけ声は嘘に決まっている。NISAでも、大多数は大して儲からないと私は思っている。
 これは簡単な計算をすればすぐわかる。元金百万円の人の年5パーセントの複利計算で得られる10年後の利益と、元金1億円の人の年5パーセントの複利計算で得られる10年後の利益にどれぐらいの開きがでるか。「月、1万か2万でNISAをやれば……」というのは堅実だけど、大成功への道ではない。
 投資は損しなければ御の字だ。経済活動の多くはそういうものなのだから。全員儲かる仕組みはない。かつて先進国が儲かっていたのは後進国から搾取していたからだ。いまも、もし莫大に利益を上げているところがあれば、誰かを泣かせているのである。いまの時代は巧妙で、泣かされている誰かを特定できないからうやむやになっているだけである。
 こんな風に考えてみたとき、努力の甲斐でさえも、金銭的な見返りで明瞭になったときに「報われた」となるのではないか。最後はカネに換算されてしまうのではないか。あなたの人生はいくらですか?
 カネに換算できない努力は、報われたと思っても自己満足になってしまう。
 いや、そこが今日は私の言いたいところであって、要するに「自己満足はいいぞ!」である。努力した、こうなった、「よかったよかった!」と喜んでしまったらそれで勝ちだ。自己満足以上の満足を得ようとするなんて、贅沢ですよね。自分でやった努力は自分で褒めればいいんです。他に誰も褒めてくれないもの。妙に褒めてくるやつがいたら、危ないですよ。あなたを騙そうとしていますよ。「ね、騙されたと思って」なんて言って近づいてきて本当に騙されちゃう。騙す人って、罪悪感はまったくないらしいですよ。だから刑期の間も次にどうやって騙そうかって考えて、出所したら実行しちゃうらしい(このあたりは偏見と憶測なので発言を撤回すべきだ)。
 騙されたと思って、自己満足で生きてみてはいかがでしょうか。

建物の線を少しは引けるようになった。


 
 

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