296 私の時間2
引きこもる勇気
記事を上げてしまえば、すぐ次の企画。体はひとつ。企画はいくつも並んでいる。ぜんぶ自分でやる。知り合いのライターは、仲間と手分けしていたのだが、その結果、仲間とギャラのことでケンカばかりしていた。そのライターは、学生のようにそんな人間関係こそ大切なのだと考えているらしく、どれだけケンカをしてもへこたれない。私にはそこまでの度胸はない。
仕事を断ることも覚えた。仲間ではなく、別の企画で出会った優れたライターにふってみたらどうか、と編集に示唆する。あとはどうなったのか、私は知らない。元請けみたいになってしまわないように気をつけた。
「これ、どう思います?」
「あ、すみません。私、仕事変わったんで」と、久しぶりに金融雑誌社の編集、Fと会ったときに切り出した。
「えー、どういうこと?」
不安定なフリーランスでそこそこ稼いでいたものの、収入のことを考えると少し安定させた方がいいと思っていたところに、ある会社から「うちの仕事をしてくれないか。ついては社員で」と言われていた。この頃、フリーランスに対する偏見もあった。大手出版社では問題ないことでも、中小出版社ではむしろ問題になるらしく(おそらくオーナーの考えなのだろう)、「うちは社員じゃないと」と言うのだ。それほど悪い年俸ではない。新しい雑誌を立ち上げたばかりで苦労している。
「というわけで、ほかの仕事は請けられないんです。いま残務整理中」
「じゃ、見るだけ見て」
F氏がプリントアウトを寄こす。私は少し顔をしかめただろう。なぜメールをプリントアウトするのか。そんなもの、転送してくれればいいじゃないか。こっちだってメールはちゃんと受信できるのだから。
驚いたのはそれが書籍の企画書で、日付とともに、国際経済評論家のT氏の名があったからだ。ここでも彼は「国際」をつけていて、確かに彼の金融への関わりは最初、銀行の為替部門だった。しかし、肩書きの印象として「国際」とつけば、海外金融機関の経験があるとか、海外での業務経験でもあるのかと思ってしまう。そんなものはない。
大きな声では言えないが、銀行の為替部門にいた間に、いまで言えばインサイダー取引のような不正を行っていたとして、為替部門の数人を一度にクビにした中のひとりだった。当時のT氏は若く、周囲の人に言われるがままに手を染めてしまったのだろう。
その事件をある小説家が取材し、彼は情報源となった。作家は知り合いの経済評論家でとても名の知れた男X氏に紹介し、T氏はその男の鞄持ちのような立場になり、評論家人生を歩みはじめた。X氏の強みはテレビだった。なにか経済的な事件が起これば各局でコメンテーターをしていた。X氏のところには書籍やラジオ出演などたくさんの依頼があり、そのおこぼれをT氏は自分の糧とした。そのうち、T氏にも依頼が来るようになって、なんとか一人前になったものの、ボスであるX氏には逆らえない。彼が「出ろ」と言った番組には出て「出るな」と言われた番組へは出ない。
企画書は「引き込もる勇気 来るべき高齢化社会に備えて」とあった。5章立てで、1章は高齢化社会と経済。2章は経済理論らしきもの。3章で持論の「引き込もれ」。4章は来たるべき高齢化社会をユートピアとするための政策。5章は社会の変革についての持論。そんな感じだったろうか。
「どう思う?」
「あー、それですか」
先日の取材を思い出す。録音を止めたあともT氏は勝手に三十分ほど持論を展開していた。ただ、私の印象に過ぎないけれど、それはあまりにも飛躍があり、論理的ではなく、また彼の説を支えるべき土台のようなものもあまり見えて来なくて、とりあえず急いで帰ることばかり考えていた。
この頃の私は、私の時間の有限性に心を奪われていて、いかに足りない時間でなんとかするかを模索していた。だから、T氏の熱意はわかるけれど、自分に関係のない話はとりあえず避けておきたかった。
(つづく?)