240 闘争より逃走
逃げ方にもいろいろある
やっぱり、逃げる必要を感じたときは、逃げる。とりあえず逃げてみた方がいい、というのが私のポリシーだ。いや、ホント。ヒーローにはなれないキャラで生きてきたから、逃げてもぜんぜんいいわけで。
とはいえ、いろいろなことから逃げて昭和、平成、令和と生きてきたんだけども、多少、反省することもある。それは、「逃げ方」だ。逃げるにしても、その時々の状況に応じた逃げ方がある。いや、実際、いまだからそう思うわけで、当時はそんな余裕はあるわけがなく、とりあえず逃げることになるのだけど。
まあ、一般的に、逃げるってカッコ悪いよね。それは普段かっこいい人の話だから。私のように普段もカッコ悪いんだから、逃げたからってなにかダメージを食らうわけじゃない。
逃げないときに食らう可能性のあるダメージと、逃げたことで確実に受けるダメージを比較して、逃げ方を考えた方がいいぞ、といまは言える。けれど、きっと、この次になにか起きて逃げるときは、そんな冷静さはないだろうから、ドタバタと逃げるだろう。しょうがないよ。
もっとも、ベストの逃げ方はない。それが私の結論。ベターな逃げ方はある。これは、いわば「距離感」みたいなものと同質かもしれない。問題との距離をどう取るか。少し離れればいいのか。ずっと遠くへ行くべきか。屋上へ逃げるか。地下室へ逃げるか。ただ角を曲がって伏せればいいのかもしれないけど。そうだね、確かに逃げるにあたっては「姿勢」も重要。頭を低くするか、堂々と逃げるか。背を向けるか。ゆっくり後ずさりするか。
逃げるのは嫌、という人も多いみたいだから、ムリに逃げろとは言わないけどね。ただ「逃げてどうする」とか「そこで立ち向かわなければ」といった威勢のいい忠告(あるいは命令)をくれる相手は、あまり信じない方がいい。そういう言葉は、こっちの中にある「後ろめたさ」を喚起させて揺さぶっているだけなので、言った相手にとくにいい解決策があるとは限らないからだ。「こいつに戦わせてみてどうなるか見てから決めよう」と意地悪く思っているかもしれないからね。
断ち切るか皮一枚残すか
いろいろな逃げ方はあるとはいえ、必ずしもベストな逃げ方を取れるとは限らない。それでも多少、気になる部分もある。逃げたあとのことだ。
逃げたあと、再び戻るのか。あるいは完全に訣別するのか。
「もう大丈夫だから戻って来なよ」とか「解決したから安心しろ」といった言葉の聞えてくる距離に逃げることもあれば、そうした声すら聞えないところまで逃げることもあるだろう。
どっちにせよ、自分からしばらくして「どうなったかな」と恐る恐る戻ることだってある。それをやるか、やらないか。
私はどういうわけか、逃げるときは、バッサリと訣別してしまう。結果的にそうなってしまう。これまで何度も逃げてきて、その後、どうなったのかさえも知らない。たまたま、風の便りでどうなったか耳にしてしまうこともあるけれど、自分から確かめに行こうとは思わない。
高校時代にバイト先でいまで言うところのパワハラを受けた。それもバイト先の社員ではなく、古参のバイトから受けたのだ。社員からは「頼むから残って」と言われたけれど、とんでもない。私は即辞めて、以後、そこには近づかなかった。なんだかんだ社員から電話もかかってきたが、断った。
たまたまそれをいま思い出したけど、このほか、さまざまな逃走歴がある。それを振り返ることさえも、今日、このnoteを書くまでやったことはなかった。記憶の中ではちゃんとやり遂げているかのようなイメージにすり替えていることも多いかもしれない。
なお、私の経験だけだからなんとも言えないが、こうやってバッサリ訣別して逃げてしまっても、必要な人とのつながりは案外、切れない。数年後、再びその時の人たちと出会って仕事をするなんてことも皆無ではなかった。
残念なことに、これはこれで成功体験になっちゃうので、教訓にならないから同じことを繰り返してしまう可能性はある。逃げ癖だろう。
ストーリーの中では、逃げてばかりいた主人公もなにかのきっかけて戦う(戦わざるを得ない状況になる)。そこで戦う成功体験を得て、以後、逃げなくなる。多くのストーリーは「がんばれ!」とか「がんばればなんとかなる」といったイメージになりがち。現実はそうはいかない。戦ったら死んじゃうかもしれない。
ここまで書いて、自分は小説でも、そうした勇猛果敢なストーリーは採用していないことに気づく。信じていないからだろう。ここまでを読み返してみて「ずいぶん捻くれているな」と感じたものの、それが私なのだろう、と開き直ることにした。