17 怖さと鈍感さ
『怪獣人間の手懐け方』(箕輪厚介著)を読んでいる
『怪獣人間の手懐け方』(箕輪厚介著)を読んでいる。珍しく紙の本だ。そして、たいがいこの手の本は、SNSで見るかぎり2時間とか半日で読んでいる人が多いようである。しかし、例によってこちらは合間に手に取って少しずつ読む派なのでまだ半分もいっていない。
先入観で著者が怪獣人間なのかと思ったが、実はそうではない。彼が編集者として会いに行く人たちの中に、怪獣人間がいるのだ。人間だけど怪獣なのである。どういう怪獣かと言えば、「源流」に存在し、「世の中の常識に囚われることなく」「日々熱狂」して、「世の中をガラリと変えてしまう」ような存在だ。そうした人との出会いで著者は人生が大きく変わったという。同時に、怪獣人間はそれだけ強力なので危険でもある。うかつに近づかない方がいいかもしれない。
ゴキブリの怖さ
『怪獣人間の手懐け方』(箕輪厚介著)の「怖い人はなぜ怖いか」というセクションで、ゴキブリの話が出てくる。「ゴキブリは超高速で予測不能な動きをする」から怖いし気持ちが悪いと著者は言う。「もしゴキブリがカブトムシぐらいゆっくり動く昆虫だったら、『かわいい』と言われたかもしれない」と言うのだ(P35)。
怪獣人間の怖さとゴキブリの怖さは次元が違うかもしれないが、恐怖の点では個人の受け取れる限界まで怖い可能性がありそうだ。
何回も紹介している『恐怖の正体-トラウマ・恐怖症からホラーまで』(春日武彦著)でも、ゴキブリの話が出てくる。こちらは、多くの文字数を使ってその恐ろしさを語っていて、この文章そのものが恐ろしい。もしゴキブリが読んでいたらかなり気を悪くするだろう。
『恐怖の正体-トラウマ・恐怖症からホラーまで』(春日武彦著)の第三章「恐怖の真っ最中」はいきなり「ゴキブリの件」として一節丸々ゴキブリ話なのである。「真っ白いシャツに跳ねた一滴の黒い飛沫のような強いマイナスイメージを伴った存在感」。「どれだけのゴキブリが隠れ潜んでいるのか、それは決して確認ができない」。人にとって住居を第二の皮膚として暮らしているとすれば、「第二の皮膚の下をゴキブリが右往左往している」。「『おぞましさ』がみるみるドミノ倒しのように広がり」。不快感、絶望感。
確かに私もゴキブリは苦手である。いや、そうでもない時期があったのは事実だ。安いアパートにひとりで暮らしていたときは、出てきたゴキブリをきちんと捕まえて駆除していた。実家で暮らしていたときもやれていたと思う(それなりに不快なことなので記憶は曖昧だ)。それが都内マンションで暮らすようになって、いままで以上に怖くて不愉快な存在になった。というのも、マンションのイメージとして「虫はいないよね」というのがあり、ましてそれなりの階数に住んでいれば、滅多に虫と遭遇することはない。
その前提なのに、なぜかそこにゴキがいる。なぜ、いるのだ、いてはいけないところにどうやって侵入したのだ、といった恐怖。そのせいで、一匹見ただけで、部屋の隅に配置する薬剤だったり噴霧して駆除するスプレーなどを購入し、その後また何年もその姿を見ないのである。
このところ見ていないので、もしいま見たら、こちらの耐性はほとんどないから、きっと失神してしまうだろう。
つまり、怖さに鋭敏になっていくときと、鈍感になっていくときがある。それは自分の気持ちであったり、環境に左右されるに違いない。
大学時代に登山をしていて、温泉のあるキャンプ場にテントを張ったとき、何気なく管理している人に「どのぐらい虫、出ますか」とバカなことを質問してしまった。「山だからね、いくらでも出るよ」と言われた。そういうことじゃなく、人を刺すような危険な虫はいるかを聞きたかったのだが、もうこちらは萎えてしまった。蚊取り線香は焚いたけど。
こういう環境ではゴキブリぐらいで大騒ぎはしないだろう。が、その管理人だって、自分の家でゴキブリに遭遇したら悲鳴を上げるのではないか?
時間がゆっくり流れるとき
『恐怖の正体-トラウマ・恐怖症からホラーまで』(春日武彦著)でのゴキブリ談義は、「ゴキブリは怖いねえ」といった話で終わるわけではなく、「粘り気のある時間」という節に続く。
たとえば、夜、灯りをつけた瞬間、壁に黒い小さなゴキがいたとする。この瞬間、なぜかゴキもこちらも固まる。「しばらく非常にゆっくりと時間が流れ」る。そして「自分が恐怖に囚われていたと明瞭に気づいた時点でやっと時間は再び通常の速度で流れ始めた」と記している。
かなり身近な恐怖体験から、フリーズし、時間がゆっくり流れていく瞬間があることを著者はクローズアップしている。現実に時間がゆっくり流れるわけではなく、恐怖体験の前に、粘り気のある時間を「記憶」しているのである。
この本の、恐怖についての詳細な観察については本書を読んでいただくしかないけれど、なるほど、確かに恐怖と時間の関係は、その体験を思い返すときにとても不思議な関係にあることがわかる。
逆から見れば、もしも自分が鈍感であれば、時間の流れが急に緩慢になることなどなく、したがって恐怖もあまり感じないのではないか。鈍感に生きることは、もしかすると時間を他の人が感じている以上に速く感じていて、細かいことは記憶に残らず気にも止めずに生きていけるのかもしれない。
どちらが幸せなのかは、わからないけれど。