385 老をもって害となす、これ老害なり
無自覚な老害を避けるには
世の中で言われている「老害」の多くは、40代、50代の働き盛りを対象にしているらしく、正直、まだ「老」ではない。実際は老ではないのに、老害と呼ばれるのは、それだけ老いを先取しているかのような言動に終始するからかもしれない。疑似老である。あたかも老人となったかのような言動を、もしも無自覚にやっているとすれば、まさしくそれは「老害」の誹りを受けても仕方が無いことであろう。
つまりその根底には、「万が一、老害と指摘されても、いまならまだ老害から脱することができる」といった誤った思想がある。これをなぜ誤りかといえば、老化は不可逆的な、いわばエントロピーの増大なのであって、元に戻れるはずはないのだから。
残念な言い方をすれば、ひとたび老害となった者は、二度とかつての若き血潮を取り戻すことはできない。その意味では実年齢が何歳でも、老害を発する者はいても不思議ではなく、その者は二度と過去へ戻ることはできない。そこまで行き着いてしまったいわば最終形態だからだ。
こうなると、老害そのものの問題とは別に、無自覚なまま老害に到達してしまっていることも問題にすべきではないだろうか。
自分は老害だ。そう確信した上での言動であれば、もはやそれは無自覚な老害とは比較にならないほど、清々とした生きざまとなるのではないだろうか。
害のみの存在とは
たとえば、「おまえは老害だ」と指摘されたとき、焦って「老益」になろうとすることほど、醜悪なことはない。一般に、「害」は多くの人にとって取り除きたい、消し去りたい存在である。したがって老害となった者は、いずれ自分は取り除かれる、消し去られるとの不安に脅えることになる。不安ばかりが増大し、不可逆的なために戻る道は閉ざされている以上、そのメンタルは極めて危険な状態へ陥る可能性が高まる。
だが、世の中で害をなすものは老害だけではない。天変地異、ほぼあらゆるものが人にとっては害となる。健康にいいことも過剰となれば害となる。もしも老益といった幻想的な現象が現実に存在したときには、それは限りなく少数であろう。老益がはびこる世は末世であろう。「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と言うではないか。
老益すらも害になるのは目に見えている。よき老は、その下の世代の芽をつんでしまうだろう。だったら、老害の方がよい。それも自覚している老害である。「私は老害なり」と宣言し、害を世にふりまくのである。
この老害に対抗することで、次世代は強化されていく。
害のみの存在があってこそ、益は力を増す。益のありがたみが増す。無自覚の老害は悲劇だが、自覚された老害は喜劇であり、ある種の兵器でもある。老害を敵国へ送り込む方法を発明すればいい。害をなすもののパワーはあなどれない。その破壊力に対抗するにはどうすればいいのか。人類の叡智を結集して対抗するしかないだろう。そこにイノベーションが生まれるのだ。
──なんてことを、さっきメシを食いながら妄想してたんですよね。