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337 判断力 いつも正しいとは限らない
判断力を妨げるもの
私たちはなにかを判断して決めなければいけないときがある。裁判官でないとしても、日々、なんらかの判断をしないと先に進めないからだ。渋滞情報を聞いて、高速を使うか使わないか、なんてことだってあるだろうし、どうやら「米不足」という話で実際に店に米がないと妙に気になってしまい「どうすればいいんだ」となっていき、慌ててなにかをしてしまいそうになる。
どんな人だって、自分の判断はある程度、正しいものとして生きている。過去には間違った判断もしたけれど、なんとかなったからよしとする。「あのとき、しなければよかった」もある。後悔として刻まれている。そうした失敗や後悔を積み重ねることで、少しは判断力も向上するはずだと信じている。
ところが、どんなに判断力があったとしても、判断できないときがある。それは正しい情報を得られていないときだ。
世の中には情報がいやというほどあって、最近はAIまでもが適当な嘘をまことしやかに吐き出すのである。嘘や偽りを生み出す構造は人間にはもともと備わっているので(だから道徳教育を求める声がある)、正しい情報を得るのはかなり難しいことなのだ。
しかも判断するときに、正しい情報がきちんと揃っていることはあまりないだろう。それは、このところ日々脅えている、突然の雷雨や線状降水帯についても言える。予報ではこうだった、なのに、現実はこうだ。それは予報の問題なのか。あるいはもしかするとタイムラグの問題なのか。正しい情報を正しいタイミングで手に入れられているのだろうか。
どんなに判断力の優れた人でも、情報の欠けた状態では正しい判断はできない。だとするとなにも前に進まないので、情報の欠けた状態でどれだけ判断できるかが問われることになる。
つまり優れた判断力の持ち主は、正しい判断をする以前に、欠けた情報の状態でも最善の判断をする人のことだと言える。
正しくない判断をするとき
「最悪のときは」といった言葉を頭につける。情報が欠けていたり信憑性に疑問のあるときは、最悪のときを想定するところから始まる。
帰りにスーパーに寄るべきかどうか。冷蔵庫に確か玉子はまだ2個あったはずだ。いや、1個かな。ゼロではないけれど、どうも判然としない。まさか家の誰かが2個を消費している可能性もある。だったらスーパーに寄るべきだろう。家に電話して確かめようとしたのに誰もいない。最悪、玉子はない。なら買っておこう、と考える。あるいは今夜は玉子なしでもいいメニューにする。最悪、玉子がなくてもおいしく食べられるメニューならいい。
そんな具合に、日常の判断をしている人は多いだろう。
ところが規模が大きくなっていくと、あとでメチャクチャその判断について突っ込まれることになる。
そこで、「判断がミスったとき」のことまで考えるようになる。突っ込まれたり非難されたときに、どこまで許容できるのか。
その許容度は人によって違う。カッコよく言えば「責任」でもある。「責任はおれがとる」みたいなセリフになる。
私のような無責任な人間にとっては「責任はおれがとる」というセリフは究極の無責任であるけれど、ちゃんと責任を取れる人ならカッコいい判断になる可能性もある(しかし、責任をちゃんと取らない人のなんと多いことか、と新聞を読んだりしている人はきっと嘆くことだろうけど)。
判断と責任。この2つの要素が入ってきたところで、もはや私の手には負えないのである。
つまり、最優秀な判断力の持ち主になれば、責任が浮上するような判断は自分ではしないように立ち回るに違いない。「このままいくとまずい」と数手先を読んで対策を取るような人たちだ。冷蔵庫になにが残っているか、その賞味期限はいつか、出掛ける前に記憶できている人たちである。
結果、自分では判断しない人こそが、もっとも判断力の優れた人だ、となってしまう。いや、それはないよね、と思うけど。
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