315 秘密に気付く
そんなつもりはなくても
先日、こんなことを書いた。
そのコメントをいただいて、自分ではじめて気付いた。本当に怖いことは書けない。この記事でも微妙にズラして書いていた。いや、もっと本質的に怖いことがあるのだ。それは自分の人生の方向性を左右するぐらい、根付いている恐怖だ。
しかし、そのことは口に出来ないし書くことも出来ない。
いわば秘密である。
そもそも秘密は、公開されることのない情報だから、自分で「これだけは秘密にしておきたい」といった意味でガチガチに隠すことばかりではなく、単に「言えない」「書けない」ことだって、事実上、秘密となってしまう。こっちにその気はなくても、こうした秘密はいくつかあるのではないだろうか。
「秘密なんてないよ」と軽くパートナーに言うとしても、そこでの秘密は、お互いを知る上で特別に重要なことで隠し事はしていない、といった意味だろう。もしも、それを相手に知られることで、自分の生き方をコントロールされてしまう恐れがあるような情報は、誰だって公開しないに違いない。
まして本当に怖いことを、他人に告げるなんて。口にするだけでも怖いのに。
とはいえ、そういう話こそ聞きたいものだ。
自分が聞く側ならそう思う。聞いてもピンとこない話だったとしても。
言語化できない
では、思い切ってここに書いてみようとしても、書けないのである。
言語化できない。
恐らく心理的なブロックがかかっている。自分で鍵をかけている。そこに本当に怖い体験は隠されていることを私は知っていて、その中身についてもわかっているつもりなのに、直視できない。あえて鍵を解いて中を覗き込みたいと思わない。
それでも、これまでの人生で「そっちじゃなく、こっちだ」と自分で選択したときには、そうした秘密の体験の影響があってもおかしくはない。「どうも、そっちへ行くと、前にあった怖い体験と同じことが起こりそうだ」と感じるのだろう。そのニオイでも感じれば、もう怖くてそっちへは行けない。あえて行く必要など感じない。
言語にできない事象があることは、出版関連の仕事をしながら、また小説を書いたりもしながら、いつも意識している。昨年、阪神タイガースが「アレ」を流行らせたけれど、その気持ちはよくわかる。表向き「アレって優勝のことでしょ」と言われているにせよ、ただ「優勝」を「アレ」に置き換えたのではない。言語化しないと決めたのだ。それは「優勝」以上にさまざまな要素を含んでいる事象だからだろう。その深さ、広さは言語で単に「優勝」としてしまうことができなかった。その結果「アレ」に代えた。
もちろん、そういう意味で、私だって常に「アレ」を目指して日々、いろいろな行動を起こしているのである。阪神の言う「アレ」とは違うけれど、自分なりの「アレ」がある。それは「目標」といった言葉では表せない。もっと深く広い「アレ」なのである。とても言葉では言い尽くせない。
こうして、結局、私にはいくつかの秘密があることに気付く。なんだ、自分も秘密があるんだな、と思う。実に大したことのない情報なのに、言語化できないぐらい自分の芯に突き刺さっている。
いずれそれが表に出てくることはあるのだろうか。そのとき、自分はどうなるのだろう。想像したところで、まったく見当もつかない。なにしろ奥深くへ押し込んであるから。直視さえしたことがないのだから。
潜在意識といった言葉で代用できるかわからないけれど、少なからず自分の意思決定に影響している「アレ」。でも、もし自分にその能力があって言語化できたとしても、ほかの人から見れば、「あれ? そんなこと?」と言われるのがオチだろう。