382 不毛な気がするとき
自分の正しさ、相手の間違い
相手と時と場合によって大いに違うだろうと思われる話。
自分の正しさを証明するために時間を費やすべきか、相手の間違いを正すために時間を費やすべきか。
なんとなく、どっちも不毛な気がしてしまうけれど、私たちはときどきこういう現場に直面してしまう。
やっぱり、自分の正しさをなんとかして立証したい。立証できれば堂々と主張できる。堂々と主張できればおそらく完全に理解されるはずだ、といった願望である。
あるいは、相手の間違いを正してあげなければならない。相手を救うのだ。それは社会のために大切なことだし、自分にとっても大事なことなのだ、といった思考である。
さて、こう書いてみて、やっぱりどっちも不毛な気がしてしまうのはなぜなのか。同じことを繰り返しているからか? 確かにわざと、私はこの文章を繰り返している。まさに不毛中の不毛ってことだけど。
これは、どっちもたぶん「正義」の話につながっている。
自分に正義があるから自分の正しさを証明する。それが俺の人生だ、というわけだ。あるいは自分に正義があるので、相手の間違いを正してあげなければならない。それが俺の人生だ、というわけだ。
ほらね、やっぱりまたなにか繰り返している感がするよね。不毛感が漂っていく。
目的が明確なのに不毛
世の中には「目的をはっきりさせればなんとかなるっしょ」という感覚がある。「なんか不毛」と感じる元凶として、まず「目的の曖昧さ」があるかもしれない。勝利の確定条件が曖昧だと、なにをどこまでやればいいかわからないからね。でもね、目的がわかっても(上記の例のように)、それだけではどうにもならないことも多い。
なにをどこまでやれば達成したと言えるのだろう。それが見えない限りはなにをやっても徒労になる可能性を拭えない。「最後には勝つ」なんて勇ましいことを言っても、その最後を見ることはできずに死ぬかもしれないからね。そうなると、それに人生を費やしてどうなの、と思っちゃう。
それに、たとえば自分の正しさが人に伝わらない(だから自分の正しさを証明したくなる)、あるいは相手の間違いに誰も気付かない(だから自分が正しい方向へ導かないといけなくなる)、といったときは、そもそもコミュニケーションに問題が生じている。自分の言葉を誰も聞いてくれない。自分の言葉を理解してくれない。相手も理解してくれないか、そもそもこちらを拒絶しているかもしれない。
そんなことをしているうちに「まだそんなことやってるの?」と思われてしまう。あるいは自分で気付く。「あれ、同じところに戻ってるぞ」。
これは自分が間違っているのか。あるいは世の中が不条理なのか。ああ、それはもう世の中が不条理なのに決まってるじゃん、そうだそうだ、それでいいや、としてしまうのも正直、ありだろうと私は思っている。
不条理な世の中を正すことはできない。そもそも不条理ってそういう状況なんだもの。
さて、じゃあ、ともかく投票には行こうかな。
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