256 論理より感情
楽しくなけりゃ意味がない
コメントをいただいて、それに返したりもしているうちに、また新たな方から引用をしていただく。川越さん、神野さん、ありがとうございます。
It Don't Mean a Thing, If It Ain't Got That Swing.
ジャズが好きだから、スタンダードも少しは知っている。「It Don't Mean a Thing, If It Ain't Got That Swing」は「スウィングしなけりゃ意味がない」の邦題でも知られているデューク・エリントンの名曲。そこから派生して「○○しなけりゃ意味がない」というフレーズは、さまざまな場面で使われていた。その流れではないかと思うのだが、「楽しくなければ意味がない」みたいなタイトルもよく見受ける。「楽しくなければ○○じゃない」といったフレーズもよく目にする。
noteを書くのは、楽しいからで、楽しくなけりゃ意味がない。
ね、言い切っちゃう。言い切るとそうなる。気持ちがそうなっていく。楽しさにもいろいろあるから、単に「楽チン」ということではない。苦労したって楽しければそれでいい。そういうものだと思う。どうせなら楽しい苦労をしたいもの。
一方、たいがい文章がぐにゃりとなっていく原因は感情の高ぶりだ。だから、「冷静に」とか「論理的に」と言われる。
だけどね、こんな文章、冷静に、論理的に書いていたら、それはそれで変じゃないですか? 楽しくないんじゃないですか?
確かに感情的すぎる文章は、読みづらい、わかりづらい、うざい。敬遠されても仕方がない。
私たちは感情の生き物で、ぶつけようのない気持ちを文章に綴ることで昇華させていく、あるいは成仏させていくわけですよ。
根っ子にはとんでもなく絡まって熱を発している感情がある。
燃えて書いてもぜんぜんかまわない。怒りは、人間をなにかに向かわせる大きな原動力だから、「冷静に」とか正直、どうでもいい。感情にまかせてどどーんと書いてしまう。
ま、とはいえ。
あとで読み返すと、自分でもよくわからなかったりするので、確かに感情のままに書くのはあまりオススメできない。わからないだけではなく、恥ずかしさもあるだろうし。
恥をかきたくない。これも感情だから。恥ずかしくない文章を書きたい、と思ってもいいんだけど、そうなると自分の言葉じゃないような、誰かの言葉を借りてきて配置するようなことになっていく。それは、正直「楽しくない」。
感情のままに書いてみる
だから、それでもあえて感情のままに書いてみる。
誰にも見せなくていいので、バーッと怒りにまかせて恥も外聞もなく書き殴る。書いて殴る。殴って書く。蹴ってもいい。書き蹴る(古文みたいだ、こんな言葉はない)。殴って蹴って書く。
そういうことはやっていい。むしろやった方がいい。感情のままに書いてみて、結果、自分の気持ちがうまく乗っかっていたらメデタシ。たいがいは、そうはいかないので削除することになる。「こんな文章がもし誰かに見られたら大変だ」と思ってしまう。
noteの文章は一瞬で消せるので、消してしまえばいい。
でも、待てよ。
そう、待つのだ。
私は仕事で文章を書いていたときは、必ず1日以上、寝かせた。いったん書き上げて「これでよし」とする。だけど送付しない。ほかのことをして一晩以上放置する。締め切りがあるので、それとの相談ではあるものの。
翌日、翌々日、締め切りだから仕方なくその文章を開いて修正していく。修正しなくてもいいときもあれば、かなり修正した方がいいときもある。いずれも、よくない文章が、浮き上がって見えるのだ。そのままの方がおもしろいならいいけれど、そうではないならバッサリ削って修正する。
そうすると、まあ、少しはマシな感じになる(ならない時もある)。
私はこうしたプロセスのすべてが楽しかった。楽しめた。だから続いたのだと思う。
続けるコツは楽しく書くこと。それに尽きる。