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367 デジタルと手書き

手書きをしなくなる

 いつからデジタルなんだろう。
 マイナカードを巡っては、とくに健康保険証の統合については賛否両論というか否定的な人たちの勢いが強い印象をXでは持つ。あくまでXの中だけど。Xはデジタルである。
 こうしてnoteを書くのも「書く」としているけれど、キーボードを打っている。大河ドラマ「光る君へ」では、美しい紙に美しい文字で「源氏物語」や手紙をしたためる場面が頻出する。役者さんたちはほんの数秒でも、それなりに字をさらりと書く場面があって、大変そうだ。
 つまり、私はずいぶん前から「書いていない」。ワープロを導入してからだから、1985年とかそのあたりからキーボードである。当初は自前で購入したワープロを会社に持ち込んで使っていた。私ひとりである。バカみたいだ。なにしろキーボードで打った原稿をプリントアウトして編集長に見せて、編集長はそれに赤ペンでいわゆる「赤を入れ」て、電子写植の会社へ渡すのだから。社内に多数のワープロが導入されたときには、フロッピーを使える機種が登場していたしディスプレイもそれなりに大きくなっていた。原稿をフロッピーで渡すことが通常になっていく。さらにインターネット時代になると、印刷所にダイレクトに原稿データを送付するようになる。
 唯一、年賀状は自分で書く部分があった。宛名を書いたり、コメントをつけたりだけど。パソコンの普及時に、年賀状ソフトなるものが販売された。いまもある、かな。確認していないけど。ハガキにプリントするわけだ。
 私はプリントゴッコが好きだったのでかなりギリギリまでそれを使っていた。宛名は手書きしていた。パソコンで宛名を印字するのが面倒だったからだ。ズレたり間違えたりするのが嫌だった。「宛名ぐらいは書こう」と思ったりもした。
 2016年、私は年賀状の全廃を決意した。2017年元旦の年賀状からやめた。ほぼ年賀状を交換していた大事な人たちとはフェイスブックなどでデジタルにつながっていたので「やめます」とそこで表明すればよかった。以後、書いていない。

デジタル人間

 もっとも、それでも年賀状は来てしまう。必要な場合は、サンキューハガキ(サンキューと印刷されている)で「年賀状やめたんだよ」と手書きして返したりもしていた。その相手から、今年の正月「今後はやめます」と来たときは、とうとうやめてくれるのか、とホッとした。7年かかった。
 今年は郵便料金が値上げになるというので、さらに年賀状をやめる人は増えるかもしれない。
 ただ、私は年賀状を全否定しているわけじゃない。中学生の頃には郵便局でバイトしたこともあったし。年末年始の象徴的な業務だ。業務って言っちゃうとなんだけど。たまに、楽しみとして年賀状を送り合うのは悪いことじゃないだろう。2025年は「巳年」。図柄としては蛇になる。蛇は好きじゃないなら漢字の「巳」をアレンジして図案にするのだろう。そういうのって、楽しいから。やってもいいだろう。私はやらないけど。
 デジタル人間と呼ばれたら、それは恐らく悪口だ。よくわからないけど、たぶん、褒めていない。どうしたって生きて行く上で、デジタルよりアナログの方に価値を置きたくなる。
 絵を描いているがこれも私はデジタルだ。だからたぶんアナログより価値は低い。もし油絵を描こうとすれば、その道具を揃え、描く場所を用意しなくてはならない。部屋も手も汚れるから、なかなか大変だろう。画材ってなかなかの高級品だ。だからこそ、アナログに価値がある、と言えるかもしれない。人間が自分の肉体を通して絵を描く。もちろん、デジタルもその基本は同じだ。だが、手は汚れない。道具も最小限で済む。コピーができる。
 最近、このnoteに付けていた絵の画像。このシリーズは今日で一応、終わりにするんだけど、レイヤーが使えるので、手前のバイクと猫と、背景はレイヤーが違う。つまり、気が向けば夕陽にしてもいいし、森にしてもいい。外壁にしてもいい。コンビニにしたっていい。しないけど。
 元は自分で撮影した写真。それを絵にしている。写真と違って、余計なものを描かないで済ませることができる。写真では背景はブロック塀だ。それはあまりに寂しいし、ブロック塀を描く気になれなかった。
 デジタルにはデジタルのよさがあって、楽しみ方もある。だけど、いま私がやっているような、このnoteを書いたり、メディバンで絵を描いたりする行為は、限りなくアナログなことだ。人間が介在すれば、どんなものでもアナログになっていく。アナログには喜劇の側面があり、悲劇を内包している。

いろいろやりたいがこの絵はここまで。



 

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