297 私の時間3
私なんかで大丈夫でしょうか?
時間が足りない。そんなことばかり考えていたので、隣に座る彼女の声を聞き逃してしまった。東海道線のボックス席。昼間であまり混雑はしていない。神奈川県方面へ向かっていた。
「私なんかで大丈夫でしょうか?」
Kさん。まだ大学生のような見た目。それでもよく知られた私大を出て出版社に勤めていた。どういうわけか、T氏の企画書は出版社の厳しい審査の目を潜り抜けてGOサインが出てしまった。そうなると、スケジュールが勝手に組み立てられて、なにもかも急がなくてはならない。
「詳しい話を聞いてくれ。ついては」自分は行けないのでKをつける。私がどこぞの社員になってしまう前に段取りだけははっきりさせておきたい。といった話。
巨大な観音像が見えてきて、やがて駅に下り、タクシーでT氏の家へ行く。
「誰にでもわかるような本にして欲しいですからね」と私はKさんの不安を解消とまではいかないものの、勇気付けるかもしれない言葉を探した。正直、Kさんの方が私なんかよりずっと適任である。彼女は固い経済書を手がける一方で、弁護士による一般向けの相続の本も作っていた。イラスト入りでわかりやすい本だった。
山のような傾斜のある住宅地。二度目なのに、はじめて来たような気がしてしまう。恐らくタクシーが以前とは違うルートを辿ったからだろう。まるで反対側からふいにT氏の玄関が現われた。
「問題は原稿がどの程度、出来ているのか、でしょうね」と私。「もしまだ企画だけだったら、かなり先の話になるから」
「あー、それは私も心配です」
Kさんは手土産を持っていた。
私のような者には似合わない菓子屋の手提げ袋。
古びた門柱。分厚い板を重ねた扉は半分開いていた。前もそうだった。玉砂利を音を立てて歩き、数歩で玄関だ。ピンポンと邸内で響く。
反応はない。
「おかしいですね」と腕時計を見る。約束の十分前。早すぎたか。散歩でもしているのか。庭にでもいるのか。数分、呼び鈴のボタンを押しては待ってみたが反応がない。
「庭に回ってみましょうか」
「いいんですか?」
「庭にいるかもしれないから」
それは私の勝手な憶測に過ぎなかった。左手へ回る細い道。いかにも入口にふさわしい枝振りの松。椿。金木犀。楓。庭は狭かった。左手へ数歩行くともう隣の家の塀が見えた。植栽を丹念に植えてある。縁側とガラス戸。灯りは見えない。
「おかしいな」
特別に胸騒ぎがしたわけではない。むしろ「あー、また時間が……」みたいな自分勝手な思いに焦りを感じていた。早く終わらせたい。帰りも時間がかかるんだから。
ガラス戸を叩いてみたが、反応はない。そこの奥にはきっと居間だろう。以前は書斎しか見ていないからわからないが。
あの時受けた部屋の多そうな家という印象はかなり削られて、平屋でこの坪数なら三部屋ぐらいではないかと想像する。寝室、居間、書斎。ここから見えないところに台所や風呂があるのではないか。
Kさんは携帯電話でT氏に連絡を取る。邸の中から固定電話の鳴る音が響く。
なにも起きない。
「困りましたね」と私は思わずガラス戸を引っ張ると、カラカラと音を立てて開いた。
「えっ」
このあたりは外出時にも戸締まりを厳重にしないのだろうか。田舎ならともかく。不用心だ。
「すみませーん」と部屋の中へ声を通す。
電話を諦めたKさんは、私の背後でため息をつく。
こんなことになるとはまったく予想していなかった。しばらく待てばT氏は戻るのだろうか。それとも忘れてしまい、どこかへ出掛けて戻って来ないのか。あるいは、書斎で倒れてでもいるのだろうか。
それにしても前回も感じたのだが、誰もいない。T氏の家族はどこへ行ったのだろう。あれからT氏のことを少し調べたが家族構成まではわからなかった。数年前に両親を相次いで亡くしていることだけはわかった。妻子の存在は、こっちの勝手な思い込みなのか。
「どうしましょう」とKさんとどうにもならないやり取りをし、「上がりましょう」と私は自分の時間がもったいないので靴を脱いでガラス戸の隙間から中へ入った。
「いいんですか、大丈夫ですか」
住居不法侵入。だけど、もしT氏が困っているなら、このまま帰る方がマズイだろう。
廊下を玄関方向へ行くと記憶にある書斎の入口に出た。そのドアは内側へ開いていた。全開といってもいい。
「あっ」
以前、T氏と話をした応接セットに男がうつ伏せになっていた。ガラスのテーブルを抱えるように手を広げている。スーツ姿。襟にフケ。薄くなった頭頂部。
「Tさん、大丈夫ですか」
そして「Kさん、Kさん、こっちに来てください、大変だ」と廊下に向かって叫んだ。
(つづく)
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