ほんけ。(心理)

愛する努力をしない人は、他者からの愛を理解できない ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 愛とは孤独を見守ること。一人でいられる能力

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愛する努力をしない人は、他者からの愛を理解できない ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 愛とは孤独を見守ること。一人でいられる能力

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明日を生きるとは、今日の自分が変わることを認めるということと、同義のようだ 今の自分に自信を無くしたとき、答えは過去にあるのでなく、未来にある だから今日という一日は、その毎日が不安定であり続けるのである 自分が自分でなくなってしまったのならそれは、今日一日を生きた証なのだ

    • 男になる努力をするから、男になるのでなく 女という存在を受容するから、男になる。

      • ストレスフルでただただ心が痛いのが、心理療法である。それはつまり、慈悲である。 そしてそれは投影でもある。庇護を受けられなかったかつての自分に手を差し伸べているのと、変わりはない。 臨床家の仕事とは、恨まれることである。恨んでいる自分、恨んでいる相手を、愛することである。

        • 自分が変容すれば、人との距離感が変わる。誰かと近づき、誰かと遠ざかる

        • 明日を生きるとは、今日の自分が変わることを認めるということと、同義のようだ 今の自分に自信を無くしたとき、答えは過去にあるのでなく、未来にある だから今日という一日は、その毎日が不安定であり続けるのである 自分が自分でなくなってしまったのならそれは、今日一日を生きた証なのだ

        • 男になる努力をするから、男になるのでなく 女という存在を受容するから、男になる。

        • ストレスフルでただただ心が痛いのが、心理療法である。それはつまり、慈悲である。 そしてそれは投影でもある。庇護を受けられなかったかつての自分に手を差し伸べているのと、変わりはない。 臨床家の仕事とは、恨まれることである。恨んでいる自分、恨んでいる相手を、愛することである。

        • 自分が変容すれば、人との距離感が変わる。誰かと近づき、誰かと遠ざかる

          お釈迦様からしたら、一期一会の縁のみならず、過去の自分すら思い出なのだろうか

          お釈迦様からしたら、一期一会の縁のみならず、過去の自分すら思い出なのだろうか

          自未得度先度他を理解したかったために書いた文

          分かりやすく私以外の人はみんな物だと仮定して 赤ちゃんの世界、つまりは投影によって対象(物に写した自分自身)と対話を行う場合 自立したい自分と依存したい相手という構図において 依存したい相手というのは、依存したい自分と完全に同義である つまり自分の依存心を他者に投影した。ということである 自立したいというのは必ずしも本心ではなく、本心である依存心を他にぶん投げて、私は依存心を持ってないと主張するのである 自分の自立心が確立してないのに、相手の依存心を悟りに導いてやれというの

          自未得度先度他を理解したかったために書いた文

          良い子が欲望によって過剰適応を行い 過剰適応で満たされない欲望に執着すると悪い子となる 悪い子の執着を止めようと問答し欲望をコントロールする能力を養うことで 良い子の過剰適応を止める素地が養える 自分の欲望から相手に尽くすという行為から 無欲で相手に尽くす態度へと変容を望める

          良い子が欲望によって過剰適応を行い 過剰適応で満たされない欲望に執着すると悪い子となる 悪い子の執着を止めようと問答し欲望をコントロールする能力を養うことで 良い子の過剰適応を止める素地が養える 自分の欲望から相手に尽くすという行為から 無欲で相手に尽くす態度へと変容を望める

          悲しいことにこれは、私が常に浮気相手のポジションに位置しているということである。 どれだけ私が関係維持に務めたとしても、私は関係維持のための都合の良い道具であり、 本当の意味で愛されることは無いということである

          悲しいことにこれは、私が常に浮気相手のポジションに位置しているということである。 どれだけ私が関係維持に務めたとしても、私は関係維持のための都合の良い道具であり、 本当の意味で愛されることは無いということである

          臨床家は1対1の関係(母子)に準拠してものごとを考えるが、現実には相手とは即ち連合である。 家族連合と私、母姉連合と私。というように 単に、母に向けた投影と対峙するだけでは、足りない 人は実際には連合を構築し、より強固な共依存関係を構築するからである

          臨床家は1対1の関係(母子)に準拠してものごとを考えるが、現実には相手とは即ち連合である。 家族連合と私、母姉連合と私。というように 単に、母に向けた投影と対峙するだけでは、足りない 人は実際には連合を構築し、より強固な共依存関係を構築するからである

          多世代家族療法の概念から見て発達(融合度が高い)が増えたと見るのもいいが、 社会が個人主義に寄ったという見方もあっていいんじゃないかと思う。相対的に発達が増えることになる。この場合は社会と個人の融合度である

          多世代家族療法の概念から見て発達(融合度が高い)が増えたと見るのもいいが、 社会が個人主義に寄ったという見方もあっていいんじゃないかと思う。相対的に発達が増えることになる。この場合は社会と個人の融合度である

          今の世の中なんかもう、 これ解決できたら、または達成できたらすげえみたいな課題が、予め設定されているのではないか。 とすら疑念に思う 私から言わせてもらうと、見て見ぬふりが上手なだけだと感じる 誰でも挑戦できる、足切りのない問題なのに 目の前の問題に対して認識を避ける能力である

          今の世の中なんかもう、 これ解決できたら、または達成できたらすげえみたいな課題が、予め設定されているのではないか。 とすら疑念に思う 私から言わせてもらうと、見て見ぬふりが上手なだけだと感じる 誰でも挑戦できる、足切りのない問題なのに 目の前の問題に対して認識を避ける能力である

          この異常性を飲み込まないと悪い事が起きるというのが、融合度の高く自己分化度の低い機能不全家族の特徴である。 悪いこと(親の機嫌を損ねる)を起こさないためにという、宗教に近い何かを信奉することで 家族という形が成り立っているのである。病理的な儀式の犠牲が子である

          この異常性を飲み込まないと悪い事が起きるというのが、融合度の高く自己分化度の低い機能不全家族の特徴である。 悪いこと(親の機嫌を損ねる)を起こさないためにという、宗教に近い何かを信奉することで 家族という形が成り立っているのである。病理的な儀式の犠牲が子である

          小学生に頭痛薬を常用させてまで習い事を強要する必要は無い この手の強迫性を子に強いているとき、親は子の存在を、そもそも見ていない 自己の強迫性を必達するための道具であり、何かのその基準によって、良い子悪い子が裁かれてしまう 良い子であるよう脅迫に対し、抵抗力が無くなる

          小学生に頭痛薬を常用させてまで習い事を強要する必要は無い この手の強迫性を子に強いているとき、親は子の存在を、そもそも見ていない 自己の強迫性を必達するための道具であり、何かのその基準によって、良い子悪い子が裁かれてしまう 良い子であるよう脅迫に対し、抵抗力が無くなる

          カサンドラの位置にいる母って、子供から見ると、父親以上に融通が利かない 父の場合は交渉によって論理が勝つ余地もあったが(関係性を尊重しようとはする)、 母の場合は自分の都合が通らないと、関係性そのものを破壊しようとする激高かつ破滅的な性質を持ってる(関係性に理想の人を持ち込む)

          カサンドラの位置にいる母って、子供から見ると、父親以上に融通が利かない 父の場合は交渉によって論理が勝つ余地もあったが(関係性を尊重しようとはする)、 母の場合は自分の都合が通らないと、関係性そのものを破壊しようとする激高かつ破滅的な性質を持ってる(関係性に理想の人を持ち込む)

          勇気が欲しい 勇気が無ければ、自分も人も、愛せない 怖がりは、人を巻き込んで安定する 勇気ある人は、距離感を作れる

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          欲望に対して真っすぐ向き合う姿勢こそ、自未得度先度他の本懐である。他者は自己の欲望の投影である。自己を写す鏡である 欲望と向き合うことは、ただただ苦しい 転移性治癒とも言えるが、やはり目の前の人間は誰からも愛されなかった私であり その人を愛することは、自分を愛することに等しい

          欲望に対して真っすぐ向き合う姿勢こそ、自未得度先度他の本懐である。他者は自己の欲望の投影である。自己を写す鏡である 欲望と向き合うことは、ただただ苦しい 転移性治癒とも言えるが、やはり目の前の人間は誰からも愛されなかった私であり その人を愛することは、自分を愛することに等しい