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「真の歴史教科書のネタシリーズ2」 〜支配の道具としてのキリスト教



1.宗教とは?

 私は、キリスト教、崇教真光、統一教会と、3つの宗教を経験して、宗教とは何なのかを必然的に考えることとなった。

 結論としては、ほとんどの宗教は、「人々を支配するための道具」であるとの結論に達した。(もちろん、ほんの一部の宗教を経験しただけなので、例外はあると思う)

 どの宗教でも、95%はいいことを言っている。それで人々を引き付ける。しかし残りの5%に罠が仕掛けられている。95%を見て、その宗教を信じてしまった人は、残りの5%も無条件に信じる心の状態になっている。
 そこで宗教側は5%に仕込んだ罠で、信者を抜け出せないようにし、金を巻き上げ、教団のために働く奴隷にするのだ。
(ちなみに崇教真光はタチの悪い宗教だとは思わなかった)

 そのような宗教の代表であり、雛形がキリスト教だろうと思っている。

 街中のキリスト教の街宣車の流す言葉を聞けば一発で分かる。「金儲けのための宗教だな」と。

「死後、裁きにあう」と脅し、「信じるものは救われる」「罪を悔い改めよ」など、信者に自らの思考力を放棄し、全面的に教会の教えを信じ、教会の指示に従うことを要求してくる。

 私は、イエス・キリストやブッダなどは、人類の精神性を高めるために地球に派遣された異星人の魂だろうと考えている。

 私が子どもの頃、父の部屋の本棚には「キリスト宇宙人説」というタイトルの本があり、「お父さんは突拍子もない本を読んでるなあ!」と思っていたが、最近になって、キリストは他の星から派遣されたとの情報を頻繁に聞くようになり、真実だったのだろうと思うようになった。

 そのような目的を持って地球に派遣された、霊的レベルの高い存在が、先ほど書いた街宣車のようなバカなことを言うわけがない!

 冷静に考えれば誰でも分かるように、教会の看板や街宣車の言葉の目的は、「キリスト教の信者に金を貢がせること」だ。

2.キリスト教を聖書から読み解く

 現在のキリスト教が何であるかを、聖典である聖書から読み解いてみる。

 まずは旧約聖書から。

創世記

 創世記に出てくる有名なエデンの園の話では、イブが知恵の木の実をとって食べ、知恵を得た結果、エデンの園を追い出される。

 このエピソードの意味を、統一教会などが自分に都合のよいように、好き勝手に様々な解釈をしており、この逸話の創作者が何を意図していたかを知ることは難しいが、一つ言えることは、この逸話はいかにも作り話であるということだ。事実のわけがない。木の実を食べてイブが急に恥ずかしくなる?誰がそれを見ていて記録したと言うのだろうか?

 話に教訓としての意味を持たせたいのであれば、イソップ童話のような、もっと分かりやすい話にすべきであろう。

 それでもキリスト教では、この物語から「原罪」という概念を捻り出している。神の命令に逆らって、イブが知恵の木の実を食べたことが原罪だとされている。それをなぜか我々子孫が受け継いでいると言うのだ!そんな与太話を信じられるだろうか?

 現代に例えて言えば、目的の分からない、学校が勝手に作ったおかしな校則に違反したとの理由で、その子孫が代々罪人とされるようなものだ。

 余りにも理解し難いからか、キリスト教の一派である正教会では原罪を教義に取り入れていないほどだ。

 「原罪」というどう考えても"無理筋"の概念を作り上げ、それを我々全人類がアダムとイブから受け継いでいるとし、罪を許されるためには「イエス・キリストを信じなさい」と教会への服従を要求する一方で、イエス・キリストの死は、我々の罪を贖うために、代わりに生贄となって背負ってくれたのだ、とイエス・キリストを神格化する。

 で、原罪はどうなったの?背負ってるの?贖われたの?

 こんな矛盾を放置したまま、2000年にも渡って生き延びて来たキリスト教。冷静になって見てみれば、キリスト教信者はバカにしか思えなくなってくる。


 さて、創世記の創作者は、キリスト教を商売の道具として利用しようとした人間に違いない。

 エデンの園の逸話が何を意味するのかの答えは、恐らくニーチェの言葉の中にある。

 そこで今度は、神は女を作りました。たしかに人間は退屈しなくなりましたが、これは神の第二の失敗でした。
「女の本質はヘビでありイブである」とキリスト教の僧侶は言います。
 要するにキリスト教では、「女が原因でいろいろな災いが起こる」とされているのです。
 その結果、「したがって科学は女から生じる」となったのですね。科学は彼らにとっては災いですから。
「女」が作られたことによって、人間ははじめて「認識という木の実」を味わうことを学んだというわけです。
 これは神の計算違いでした。自分の敵を作ってしまった。人間が科学的になれば、僧侶も神々もおしまいですから。
 だから、キリスト教は科学を禁じたのです。科学は最初の罪であり、すべての罪を生み出すものであり、原罪であるというわけです。
『聖書』には「汝認識することなかれ」という言葉があるくらいですから。
「科学からどう身を守ればいいのか」が長い間、神の主要な問題となりました。そしてその答えは、人間を楽園から追放することでした。
 ヒマがあって幸せだったら、人間は頭を使ってものを考え始める。そこで僧侶たちは、人間が考えるのをやめるように、「死」「苦労」「さまざまな悲惨なできごと」「老化」、そして「病気」をでっちあげたのです。
 それらによって科学を倒そうとしたのですね。
 しかしそれにもかかわらず、ものごとを考えるという力は、天にさからい、神々が落ちぶれていくのを知らせるように、高くそびえるものなのです。
 人間は考えるのをやめなかった。そこで、今度は神は戦争を作りました。民族と民族を分断させ、人間がたがいに攻撃し合い、絶滅するように仕向けたのです。

「キリスト教は邪教です!」より

 この中で、主語は「神」になっているが、実際は「キリスト教会」のことだ。

 すなわち、キリスト教会は人々が自分の頭で考えることを嫌ったのだ。彼らの教えは科学的でないので、合理的に考えられてしまっては彼らの持つ魔力が失われる。人々が自分の頭で考えず、教会の言うことを大人しく、何の疑問も持たずに信じることが、教会の権力を増大させることにつながるのだ。

出エジプト記

13 初子を捧げる
 主はモーセに告げられた。「すべての初子を聖別して私に献げなさい。人も家畜も、イスラエルの人々の間で初めに胎を開くすべての初子は私のものである。」

 生贄を要求する神とは何だろう? まともではない。現代に行われていたら(行われているが)、悪魔儀式と呼ばれ、当然ながら犯罪だ。

 モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ、乾いた地にした。水が分かれたので、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

 完全に映画だ!
 この演出は。

 海を割ったのは神だ。
 モーセが神によって守られていると印象付けるための演出だ。
 こんなことが実際に起きるわけがない!

 実際にあったとしたら、やったのは神ではなく、高度な技術力を持つ異星人だ。

 この文章を見て、「モーセって凄い!😍」「神様って凄い!😍」と思ったのなら、異星人情報で有名な佐野美代子さんがマッドフラッド説を肯定的に取り上げていたら、簡単にそれを信じてしまう佐野美代子ファンと同じレベルの単純さだ。

 こんな演出を簡単に信じてしまう方がどうかしている。

 特殊詐欺に引っ掛かるお年寄りをバカにできないレベルだ。

 このシナリオを作ったのは、素人の推測ではあるが、ユダヤ教に人々を取り込もうとしたラビ(ユダヤ教の聖職者)たちではないだろうか?

3.キリスト教とは何なのか?

 聖書の検証はこれくらいにして本題に入っていく。後日、本格的に聖書の検証を行うつもりだ。

 現代のキリスト教は、明らかに人々を支配するための道具と化していることは明確である。ざっと歴史を俯瞰してみても、キリスト教は初期の頃から支配の道具として利用されてきたことは明らかだ。

 そのことを具体的に見ていく。

 以下が、私の描く仮説だ。

1.人類の魂を引き上げるために他の星からイエス・キリストが転生してきた。

2.イエスの教えを受けた弟子たちがキリストの教えを広め、「初期のキリスト教」ができた。

3.最初はキリストの教えを伝えるだけだったが、権力や利益を得たいと考える者たちにより、「支配と利益のための商売キリスト教」化されていった。その「商売キリスト教」の会社がローマ教会であり、現在のバチカンである。

4.ローマは多神教の国であり、ローマ皇帝も「神のひとり」として崇拝されていた。従って一神教のキリスト教は弾圧されたが、国民に支持されるキリスト教を認めないのでは国民の反発を受けるため、キリスト教の保護に舵を切る。(ここは史実そのものを持ってきた)

5.その後は国と教会が持ちつ持たれつで、お互いを支配と利益のために利用する関係が続いている。

 1に関しては当然ながら物的証拠は存在しないので、複数の筋からそのような話を聞いた、と書くだけにとどめる。

 2に関して。

 イエスはあくまで 「ひとりのユダヤ教徒」として、 ユダヤ教の在り方に疑問を抱いていたので、自ら新しい宗教を打ち立てようという意思は持っていませんでした。 しかし、イエスの弟子たちはイエスの教えや行動をもとに 「キリスト教」 を始めたため、 ユダヤ教とは分離してキリスト教が成立したのです。 イエスの教えは、ペテロやパウロなどの「使徒」 といわれる人々の布教活動によって、ローマ帝国内に徐々に広まっていきます。

「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書」より

3に関して。

 イエスの教えそのものではなく、教会の都合でいじったものだったため、様々な矛盾点や不合理な点が生まれ、不毛な論争を生んだそうだ。

 ニーチェの「アンチクリストフ」の現代語訳である「キリスト教は邪教です!」に答えが書かれているようだ。

 イエスの教えと正反対のものが、パウロが作り出した現在のキリスト教です。
 パウロはイエスとは正反対のタイプで、「憎しみの論理」の天才なのです。パウロはイエスを含めて、すべてを憎しみの犠牲にしてしまいました。
 パウロはイエスを自分の十字架にかけたのです。イエスの都合がいいところだけを、パウロは利用したのですね。
 パウロが作ったキリスト教には、イエスの大切な教えは何も残っていません。
 パウロはデタラメなキリスト教の歴史をでっちあげました。それどころかイスラエルの歴史まで自分たちの都合で書き換えたのです。
 その結果、すべての予言者が、パウロが作ったキリスト教について語ったことにされてしまった。
 その後、さらに教会は人類の歴史をキリスト教の歴史へと書き換えていきました。
 しかし、 それらはイエスという人間とはまったく関係ないことです。
 しまいには、パウロはイエスが復活したというデマを流しました。
 結局、パウロはイエスの教えからは何も学ばなかったのです。ただ、イエスの十字架上の死を利用しただけでした。
 (中略)パウロはただ権力がほしかっただけです。パウロをはじめとするキリスト教の僧侶たちは、人々を抑え込むため「教義」や「象徴」がほしかっただけなのです。
 後にイスラム教を始めたマホメットは、「不死の信仰」をキリスト教から借りてきて利用しましたが、これもパウロが発明した「僧侶による社会支配の道具」だったのです。

「キリスト教は邪教です!」より

 また、「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 宗教編」によれば、イエスの教えを世界に広げようとしたのはパウロだ。

 もともと熱心なパリサイ派だったパウロは、イエスたちを迫害する立場にありました。しかし、イエスとの出会いを体験し、イエスを「救世主」と考えるようになります。パウロ以前の布教活動は、あくまでユダヤ人を対象とする活動でしたが、パウロは「神の愛は異邦人(ユダヤ人以外にも及ぶ」として、非ユダヤ人の宣教に熱心に取り組みました。パウロの活動の意義は、「ユダヤ教内部の改革運動」だったイエスの教えを「新しい宗教」としてユダヤ人以外にも広げたことといえます。

「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 宗教編」より

 元々はイエスらを迫害する立場だったのに、突然態度を180度変えたのは、自分が新しい宗教の「教祖」になることを狙ったからなのではないか?だからこそ、イエスの教えを世界に広げるなどという壮大な作業に取り組めたのではないか?

「キリスト教は邪教です!」にあるように、パウロがイエスの教えを徹底的に捻じ曲げたことからも、この説はいい線を行っているのではないかと思う。


 やはり全くでたらめだったキリスト教。

 牧師の妻であった、父方の祖母は熱心なクリスチャンであり、私が小学校に上がる頃から我々と同居することになった。
 そして事あるごとにキリスト教の教えを出して我々を戒めていたと記憶している。しかしその度に私は祖母に偽善の匂いを嗅ぎ取っていた。
 いい言葉もあったが、直感的に「おかしいぞ!」と私の本能が警告を発していた。

①利益のためのキリスト教

 教会が金銭的利益を得るために考え出された物の一つが「免罪符」だ。
 簡単に言えば、「金を払えば罪が許される」というものだ。

 これを見れば、教会の言う「罪」の概念がいかに怪しく、教会が金銭を得るために考え出した概念であろうことが推測される。

②侵略のためのキリスト教

 これに関しては恐らく異論はないだろう。

 宣教師の裏の目的はスパイだったようだ。 下記URLによると…
 キリスト教の宣教師であったフランシスコ・ザビエルですが、宣教師というのは各国を回ってその国の状況を視察するという役割も担っていました。
 最近、イエズス会の文書館に保存されていた秘密文書が公開されて、その中にザビエルの書いた手紙がありました。そこには「スペインの基地を作るために地理的条件を考えると天草が最高だ。長崎に要塞を作るべきだ」と書かれていました。
 布教活動をする一方で、スペインの基地を作るという計画もあったようです。

http://www.ntv.co.jp/sekaju/student/20061216/01_0301.html

③人民支配のためのキリスト教

 本投稿の前半に書いた通り、キリスト教は人々から思考力を奪い、教会に従属させるために作られた宗教である。


4に関して。

 当時、ローマは多神教の国でした。 ローマ皇帝も、 「神のひとり」として崇拝されていたのです。そのため、唯一絶対の神を信じるキリスト教徒は、
ネロ、ディオクレティアヌスや、多神教を信じる一般的なローマの民などから激しく迫害され、公然とはキリスト教を信仰できない状況でした(青だらけの地下墓地などで細々と信仰が受けつがれるのみでした)。
 しかし、水面下では、キリスト教がじわじわと民衆の間に広がっており、「禁じてしまったらローマ帝国はバラバラになってしまう」という段階まで達すると、一転してコンスタンティヌス帝は、ミラノ勅令でキリスト教を公認して、 キリスト教の保護に回ります。 そして、キリスト教が爆発的に広まることになるのです。
 最終的には、テオドシウス帝により、ローマ帝国の人々は「キリスト教以外の信仰は許されない」という段階に至ります。 こうして、現在のヨーロッパのほぼ全域にわたってキリスト教が信仰され、ヨーロッパに宗教的「統一性」がもたらされる下地が完成したのです。

「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書」より

5に関して。

 特に裏付けとなる資料はないが、人々から思考力を奪い、上からの教えに無条件に従わすことのできる宗教は、国民から考える力を奪い、国の言うことにおとなしく従う国民ばかりにしたい国にとっては実に都合のいいツールであるはずだ。

 国がキリスト教を国教とすることで、キリスト教を通じて国民を思うようにコントロールできる。

 そう、宗教と政治は相性がいいのだ。

 だから日本においても、自民党には統一教会、公明党には創価学会がくっ付いているのは極めて自然なことなのだ。

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