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(3)稲作からゆず栽培への移行
Vol 77
このツアーが普通のツアーと違うのは、現地の人々の生活に深く入り込み、現地の人々との交流を通して、彼らの生活環境や文化を彼らの生き方から理解することができたことです。
笠置町にあるわずか14世帯の集落、厳しい地形の山の斜面に作られた棚田に囲まれた栃久保棚田に到着しました。
350年、地域の争いを逃れてこの地にやってきた一族が、その子孫とともに開墾し、田畑を作り始めたのが始まりと言い伝えています。この村の人々の多くは同じ姓です。
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木曽川沿いの急峻な地形を背景に、美しい棚田や民家、神社、墓地が独特の景観を作り出しており、2010年には「岐阜の棚田21選」に選ばれたほど風情があります。 栃久保棚田に立つと、失われつつある日本の伝統的な山林本来の姿が目に浮かぶようです。
当時、人々は生き延びるために、狭い土地に棚田を築いて稲作面積を増やしました。しかし、時代の変遷とともに、機械化の困難さ、米作りのコストの高さ、水源となる森林の生態系の悪化などから、人々は徐々に棚田を放棄し、故郷を離れていきました。
稲作農家の人口は減り、放棄された田んぼの数は増えていきました……。 地元の人たちは、先人の知恵と棚田を後世に伝えることの難しさを語ってくれました。
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その後、稲作からゆず栽培に転換しました。
「平成18年からはじまった恵那市まちづくり事業で、笠置町活性化委員会産業部会で何か地域の特産品を作ろうと話になりました。松茸・ほうばの木・ゆずなど色々と模索をした中で、結果的に残ったのが柚子。
「笠置町の河合栃久保地区には昔から、各家庭に一本や二本くらいは植えられていました。いつごろからあるかっていうのは誰もはっきり分からんけどね。
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「柚子っていうのは、すっぱさと香り、皮が勝負だと僕らは思います。これがちゃんと引き立って、でもどこかに甘みが隠れているような。それから適度な大きさと、肌がきれいなことが大事。
やっぱり口に入れるものだから、組合としては無農薬にこだわっていて、組合員には農薬を使わず育てることを推奨し、無農薬の物しか(買取を)受け付けていません。」
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長年にわたるゆず栽培の研究と商品開発の結果、恵那市笠置町は岐阜県の2大ゆず産地のひとつとなりました。
自然の気候条件を利用し、地元の人々はゆずを栽培して楽しむという先祖代々の習慣を、収入を生み出す植物に変えました。結局、棚畑の放棄と山村の衰退は防がれ、彼らはゆずを使って故郷を活性化させたのです。
中国の「百家号」サイトのAIは中国語バージョンの本文をもとに制作したショット映像
https://mbd.baidu.com/newspage/data/videolanding?nid=sv_5543337848262380768
本文の中国語バージョン