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他人の思考を借りる、ということ。
僕たちは一人で考えると、カンタンに考えたつもりになってしまいがちだ。自分なりにまじめに考えて陰謀論に陥ったり、ネット記事に書かれていることを理解する前に噛み合わない意見を書き込んでしまったり。そんな例は枚挙に暇(いとま)がない。
その背景に現代のメディア環境があるのではなかろうか。
インターネットに常時接続するデジタル機器に囲まれた僕たちは、メールやSNSなど、様々なタスクを次々にこなしながら、他人の反応ばかり気にかけるアテンション・エコノミー(関心経済)のまっただ中にいる。
それは、どんな対象にも集中しない訓練をしているようなもの。意識しないと、考える以前に『きちんと聞くこと』は取り戻せない。
哲学(というと大袈裟だが)の営みはそれとは逆に「他人の考えをインストールすること」だと僕は考えている。
僕が学生時代にハマってたカントやデカルト、デューイなど、過去の哲学者の書いたものは、ぱっと読んで面白いものではないし、ぶっちゃけ訳が分からないところも多い。大学を卒業してから25年も経つのであまり覚えてないし。w。
でも、僕がすぐに理解できる以上のものがあるはずだと期待して読んでいくと、自分の常識をアップデートできるチャンスが開けると思うのだ。先人に学び、思考パターンのレパートリーを増やしていくことが大切なんじゃあないだろうか。
といっても「哲学」をことさらに特権化したり、重々しく考えたりするつもりは毛頭ない。
「ジョジョの奇妙な冒険」や、「新世紀エヴァンゲリオン」のセリフなども十分に哲学的という感じがするし、僕がそれらの思考も借りている感じをメタ認知(自分の認知活動を客観的にとらえ、自らの認知(考える・感じる・記憶する・判断するなど)を認知すること)している。
ブルース・リーのセリフに「考えるな、感じろ!」というのがあるのは、ご存知の人も多いだろう。これもその一つ。
「考える前にとにかくやれ!」という風に解釈されがちだが、そうではなく「考えたつもりになって思考停止するな!そこからはみ出していく漠然とした勇気(のようなもの)に耳を澄ませるかが勝負だ!」という言葉として受け止めた方がいい、と僕は思う。
性急に自分の意見を言う前に日々出会う人やものの複雑さに目を凝らすこと。そうして思いもしなかったものを受け取るところから、習慣や世の大勢に流されない思考や自己対話が始まる。
戦争体験を踏まえて紋切り型の言葉遣いに警鐘を鳴らした鶴見俊輔は、自らの体験をエピソードとして繰り返し語ったと聞いた。「学校からの帰り道に中身も覚えていない話をしたこと」とか、「あの時に見た絵に震えたといったこと」とかでもいいんじゃあないだろうか。
アテンション・エコノミーの中で見過ごされがちだが、僕たちの生活の本分は、他の人とシェアしづらい、バズらない体験やエピソードの方にあるんじゃあないだろうか。