確率論 ~9月26日 笠井叡vs吉増剛造~
両国のシアターX(カイ)、『舞踏言語 吉増剛造との三日間』の初日に行ってきた。勘違いしていたのだけれど、あれは10年前ではなく、8年前だ。
2010年の夏、26歳になる誕生日の2週間ほど前、日吉キャンパスの入り口に座す、アートで、ごーじゃすで、目的のよくわからないガラス張りの建物の、まさに舞踏でもせんという広く切り取られたスペースで催された演目で、〈笠井叡vs吉増剛造の第一弾〉を観た。あれが御二方の初めてのコラボだったというのは、今日の舞台後のトークを聞いていて知った。
日本語の、日本の空間に棲まう〈存在(論)〉が、私はずっとわからなかった。今晩最後列で舞台を観ながら、それがふと、ストンとわかった。
風に舞うもの。風に舞っていく音。その音自体に転生して舞っていく存在自体。それが日本語のせかいにおける、存在なんだと。
風に 舞って、消えていくもの。ふわふわと 四方に、互いの行き先を知らない片鱗に分裂しながら、見えなくなっていくもの。
8年前の私が、その詩と舞踏を観ても〈わからなかった〉理由は、その〈存在〉のありようがどうしてもわからなかったからだ、ということも今日合点した。風に舞っていく存在は、ときに隕石のように燃えて、火の玉になる。だから、熱風。
" (詩集『熱風』から) 笠井さんが選んだのが「熱風」であることに驚いた"という、吉増さんの導入があった。でも結果的に、詩の奥に横たわるは音量は紛れもなく笠井さんの体によって熱風になって、会場内に振動し続けていたと思う。
会場に来ていた人は、総じて年齢層は上のように見えた。若い人は、詩や舞踏に興味がないというより、そんなものに金を出せない時勢なんだろうと即座に素直に思った。
吉増さんは統合失調と言われたことがあるらしい(吉増さんの自伝を買って読もう)。私は、十代の終わりに言葉(活字と音とイメージ)がばらんばらんにならなければ、あの文学部に行っていない。数年後の正月明けに父親が死に、実家で母親と東方神起のライブDVDを穴があくほどに観て気持ちを紛らわした春休みが明けて、哲学サークルの部室でぼんやりしていたのを文学サークルの怪しいカップルから勧誘を受けなければ、奇天烈な面々が棲まうそっちのサークルに移籍していない。文学サークルにいた、物理専攻なのに「岡本太郎になりたい」と言っている変てこりんな人と付き合い、毎週のように美術館やギャラリーにいく生活を送らなければ、当然のようにその2010年6月30日の公演を観に行かなかったと思う。
「詩人になりたい」とはっきり思ったのは17歳の頃(理数科コース必修のグループ研究で、夏にトンボをメスでさばき、実験対象に定まったコオロギとひたすら過ごす秋を終えたあたりに、私の将来の雲行きは怪しくなっていた)。何年も経った後で、その奇天烈文学サークルに入らなければ、実際に下手でもなんでも詩を書いてみる機会を得ることだって、なかったかもしれない。
3年前。血迷って魔が差して渡印して、でも蓋を開けたら就職先の営業活動が賄賂だったのですぐさま日本に帰国し、元いたオンボロワールドワイドなシェアハウスに舞い戻り、前に住んだ時とは反対側の棟の部屋に入って、隣の住人がダンサーのKちゃんじゃなければ、先月の彼女の舞台を観に行かなかった。そのシェアハウスでの繋がりがきっかけで私がこのnoteを書いていなければ、その舞台を詩人と一緒には観に行っておらず、舞台が終わって数百メートル歩いたところで中嶋夏さんのお弟子さんにばったり遭遇して今日のチラシをもらうこともなく、私は今日の公演のことは知らずに過ごしていた。
別に、詩なんてなくても、この世界も人生も、なんの問題もなく流れていく。だから、8年前も今日も、その邂逅がなかったとしても、私の人生は流れて行くものであったかもしれない。それを、胸を張って言えない自分が、私の人生たる所以でもあるけれど。