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目線は低けりゃいいものでも高くていいものでもないね.
目に見えない法則や規則を模範としたり, 倣ったりあるいは則って行動している. それらを子どものうちに学んでいるというのは, 驚くべき事でも何でもなく単なる事実でしかないのだけれど改めて考えてみると面白いなとふと思う.
“みんな” という名の総体を, 常に僕は知らないと思っている. 「〜かもしれない.」と仮定形で受け止める事で自分が無知であることを自認した上で物事を俯瞰し考える癖があるのだろう.
それが恐らく, 子どもの目線で考える一線に繋がっているのだろう. たぶん.
みんなきっと分かっているという確信を常に持たずに, みんなきっと一部分を分かっていて一部分をわかっていない. だからこそ, 確かめ合おう- 話し合おうの姿勢が癖づいていて「僕は君のことを知らないから教えてよ!」な背の低さがあるのかもなと.
いつ, 人々は知っていると思い込んでいくのだろう?その環境って?社会って?言葉って?
マイジョリティーの意見が採用されず, 無視され続ける経験を経験してもなお発言し続けられるかどうかはモチベとかやる気とかに纏められがちだ. そう言っている連中には, 一生理解できない見晴らしがある.
ルールや社会の空気は見えないし押せない引けないわけで, 見晴らしはさぞかし狭い.
で, スタートに戻るわけだ.