より自然な美しさを求める時代へ。
フィルムカメラの淡い儚さは、金平唐の気配がするのぉ。
どうもおぐです。撮影当日。いつもの如く強い風が吹き荒らす。すいません風男です。
今回は初めての試みということで、自分という存在の手触り感をどうやって感じるられるかをコンセプトにフィルムカメラと白黒と解像度高めのカメラでとってみる事にしました。
完成品は後日掲載します。
踊りを撮る時も、ポージングを撮る時も。シャッター音が被写体と撮影者の了解を担っていて『撮られるな。/撮ろう。』が同時に行われる。だけど、あの「カシャカシャ」する音があると不自然に構えてしまうし、意識しすぎてしまったりするので自然な表情や何気ない瞬間を切り取るには邪魔でしかない。何かしている様子を横から撮ろうもんなら、一瞬の空気を音が遮ってしまうモノだ。。。
撮ってから、完成した写真がわからない懐かし感覚を思い出しながら、フィルムで撮ってもらった。最近流行のDispoも同じだけど、切り取った物をすぐに見返す事に慣れてしまった僕らの習慣を想い馳せながら待つという行為のエモさを今再び考えていた。
盛らない、自己演出しない自然な状態がティーンズを中心に一つのうねりを見せていて。古きへの回帰と言うよりこの場合”自然さ”への憧れと共感のような気がしてならない。嘘偽りの作り込まれた嘘っぽい本物よりも自然への帰郷の方がもしかしたら強い。
素材の味を嗜む舌を持ってきた文化の礎の上で再び味わい深さを、感じ始める風が吹いてきたなぁと思う今日この頃。