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白く、とろりーーファースロップ
ファースロップに到着したのは夜も更けて融け入る23時頃で、どこまでも透明な暗闇からは絶え間なく祈りのような雪が降り注いでいた。
ファースロップは死者の街だという。といっても、勿論、死後の世界に存在するというわけでもなく、こうして生ぬるい息を吐き続けるわたしが切符1枚で辿り着けてしまう場所にある。曰く、そこは死者を愛する街なのだ。死者を悼み、死者を想う。だから無彩色の表通りはいつも静かで淋しくて、然しどこまでも、やさしい。
厳粛に佇む鉄の門を抜けて、街の中心部へと歩を進める。吸い込まれそうなほど色のない雪道のどこにも、人の姿はなくて、わたしはわたし自身がひとつの影になって、この街の足許にまるまっているような、かすかな安心感を覚えていた。そうして、しゃくり、と安いブーツが雪を踏みしめる度、わたしの心臓は次第に、ありふれた音楽記号のように、この無彩色の中へと眠りに落ちるのだ。死者の街で死者となる。それはきっと夢のように、天国のように、しあわせなことなのだ。
ため息の熱さと、夜の冷たさで目が醒める。灰かぶりを想わせる、哀しげな色をした外壁に、等間隔に立ち並ぶ青白い街路灯が綺麗だった。
しばらく歩くとちいさな宿屋をみつけたので、此処を一夜の我が家にしようと決めた。装飾のない白い扉を叩くと、かんかん、と鈍くも軽やかな音がして、静かにそれが引かれる。
顔を覗かせたのは、白髭の、いくらか仏頂面のおじいさんで、わたしがよそゆきの声で素泊まり、一泊です、と告げると、仏頂面のまま軽く頷いた。わたしもつられて堅い顔をつくってみせて、白い扉を潜り抜ける。ロビーは簡素ながら小綺麗な木造りで、ひと続きに談話室らしきスペースが見えた。外の寒さをまるごとふやかすように暖かい暖炉の熱で、すぐにわたしのマフラーにくるまれた首のあたりを蒸らした。
暖炉の上には銅の小鍋がひとつ、置いてあって、ことことと心地好い音色とともにまどろむように甘い、いい香りを漂わせている。おじいさんが奥の戸棚から古びた宿帳を持ってくる間、わたしは何度も、彼の白髪の旋毛のあたりと、小鍋のふたのまるい部分を、交互に交互に見比べていた。
おじいさんが言うには、ファースロップでは、冬の盛りにささめ砂糖の雪が降るらしい。
それはふつうの雪より、ずっとやわらかくて、ずっと甘くて、ずっと冷たくて、ずっとはかない、特別な雪だ。ささめ砂糖の雪が積もると、街の人たちは、銀のボールにそれをたくさんたくさん集めて暖炉にかけて、ささめ砂糖のスープを作る。それは白くとろりとしていて、ちょうど、「あまざけ」によく似た姿をしている。おじいさんが小鍋の蓋を持ち上げて、おたまの先でぐるりと混ぜると、真白の湯気とともになんともいえず甘くやさしい香りが立ち昇って、おもわずほう、だなんてかきことばみたいなため息がこぼれた。
おじいさんは、わたしが宿帳に慣れ親しんだわたしの名前を書く間、スープのとろりと同じくらいの語り口で、娘さんの話をしてくれた。彼のやや癖のある声が、やわらかく少女の名前を紡ぐ度、わたしの右手はとろりよりももっととろとろと、時間を忘れて、たったの五文字をはてのない深雪の中へと解き放って行った。
娘さんは、ネモネといって、おじいさんがまだおじいさんと呼ぶには少しはやい頃、亡くなった。
「すごくやさしい娘だったんだ」おたまで夜をかき混ぜながら、雪景色は更けていく。「でも、それは、なんだか、いなくなってしまってから、すごくやさしかった思い出だけが、鍋の底に、澱のように、遺ってしまったに過ぎないのだとも、思うんだ。私は、彼女が泣き止まないとき、彼女の機嫌が悪いとき、彼女が私のいいつけを少しも守らないとき、彼女のことを酷く、疎んでいた。でも、あの日、彼女が白い箱になってしまって、私の名前を呼ばなくなって、そのとき、私はそれまでのなにもかもよりも、彼女が恨めしかった。どうして、私に笑いかけてくれないのか、酷く酷く恨めしかった。私はずっと、この街で、死者を悼むことを知っていたつもりだったけれど、彼女が死者になってしまうことは、知らなかったんだ。ふしぎだね。わたしは哀しいとか悔しいとか、そういうものよりも、ただその事実に酷く驚いて、跡形もなく融けてしまったんだ」
わたしがさいごの一文字の、「はらい」をいくらか「とめ」気味に書き終えたとき、おじいさんは小鍋を火から下した。
「白くとろり」は濁り水のように、彼岸のあわをはじかせる。おじいさんは言う。このスープに、遺骨の灰を混ぜて、堅い黒パンを浸して食べるのだ。そうすると、「死者」が白い箱の中で味わっている淋しさを、すこしだけわけてもらえるのだ。
かなしいですねとわたしは言った。やさしいですね、だったかもしれない。ねむたいですね、だったかもしれない。ただ朧な記憶の中で確かに、その香りに涙がこぼれたことだけを、覚えていた。
雪は深い。ファースロップの夜は静かに、甘やかに、眠りに落ちる。
白くとろりを唇に馴染ませて、夢のように、天国のように、しあわせに、わたしは死者になった。
2017/2/20