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摩天楼ーーキソニン

 金木犀が甘く香る頃、列車はキソニンの街に着いた。
 時刻は、18時。ブラン・リリー急行とともに夏を発ったときにはまだ蜂蜜色に溺れているくらいの時間だったのだが、この近辺は既に日も短く、あたりはうまれたばかりの清冽な夜の気配に満ちている。
 金木犀の花が、昔から好きだった。甘い香りは勿論、秋の気配を濃縮還元したようにあざやかなオレンジ色のはなびらが、特別好きだった。かつては実家の裏の細い路地で、風が吹く度香っていたそれを、今見知らぬ街で浴びている。そのことがなんだか不思議で、くすぐったくて、嬉しかった。花の香りが届くことは、便りも願いも届くということだ。

 キソニンの街は、大都市である。「緻密なこと」と「きらびやかなこと」と「さみしいこと」は同義である、というキソニズムの思考を許に発達した街で、いつでも緻密で、きらびやかで、どこかさみしげな雰囲気が漂っている。田舎生れのわたしにはとんと縁のない場所だったのだけれど、成程降り立ってみれば緻密できらびやかでさみしげである。硝子のシェルタに護られたプラットホームで、わたしはひとり、遠ざかる列車を見送った。
 キソニンといえば有名なのが、キソニンランプの摩天楼だ。駅を中心に立ち並ぶ高層ビルのことを、夜に限り、そのように呼ぶ。高架駅の路線沿いにちらつく摩天楼の灯りは、端整なましかくに行儀よく整列して、幾千の「生活」をそこに浮かびあがらせていた。透明な夜の中にその境界が融けて、都市全体がひとつの天球のようだった。北極星にピン留めされて、わたしは糸のように恬淡に、この場所にぶらさがる。

 ぶらさがっていると、街の人とすれ違った。
 キソニンに住まう人たちはうさぎのように耳が長く、うさぎのように引っ込み思案で、うさぎのようにやさしい。彼らには光がない。いつも影になって灯りの絶えないビルの中を行ったり来たりする。時に長く伸びて高い高い棚の上の埃を払ったり、天井からちろりと下がった灯り紐を引いて明るさを調節したりする。だからわたしと、光も影も厚みもあるわたしのような余所者と、彼らは、基本的に「すれ違う」ことしかできないのだ。
 それでも、精一杯の誠意を込めて、軽く会釈などをしてみた。へこへこ。キソニンの人もやさしいものだから会釈を返す。へこへこ。へこへこしあえばいくらか人見知りもやわらいで、わたしはキソニンの名物について聞いてみた。いつだって旅行の目的と興味の、8割方は食べ物のことなのである。
 その人曰く、キソニンではしろいお揚げにそぼろの星が入ったものを、おだしで煮て食べるらしい。街並みに反して、随分素朴な名物なので驚いた。たらば蟹と樽出しクリームのタリアテッレ、タランテラを聞きながら、だとか、そういう難解でお洒落なものを食べているのだとばかり思っていたのだ。
 そぼろの星は、白や黄色や赤色をしている。黄色はゆずで、赤色はしそが練り込んであるらしい。煮る前は乾いてさくさくとしているが、おだしを含むともちもちとした食感になって、噛むとじわりとおだしがしみる。もちもちに膨らんだ星でふっくらとまるくなったお揚げが、あたたかくておいしくてやさしくて、夜に煙って、涙を流すこともあるそうなのだ。キソニンの人は、やはり、やさしい。やさしい人たちが、灯りをともすので、街の灯りもすべて、やさしい。
 わたしはその人にお礼を言って、お揚げの食べられるお店を探すべく、自動改札を抜けた。摩天楼がかがやいている。夜は随分長そうだ。

2016/10/2

#サンタ・クルスをたずねて #短文

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