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晴れた日はさわやかな丘の上で――スリーヴス
降り注ぐ日射しよりも、風はいくらか涼やかで心地好い。スリーヴスに到着したのはお昼どきであった。ブラン・リリー急行の、硝子のしかくに切り取られた街は、しぼりたてのミルクと、摘みたてのペパーミントで作ったアイスクリームのように、どこまでもどこまでも目の醒めるような青だった。
スリーヴスは、ウルトラマリンブルーに輝く南の海に、ひょろりと突き出す左腕のような形をした、港町だ。海辺はさかなの市場や酒の飲める店がずらりと並んで、朝から晩まで賑やかな人々の笑い声がきこえる。
スリーヴスの住人は、いわゆる「南国気質」とでも言うのだろうか、陽気でフレンドリーな性格のひとが多い。それでいて、どこか洗練されたスマートさも併せ持つ、一言でいえば「さわやか」な人たちなのである。夏はよく晴れ、それでいて涼しい風がよく通りを抜けていくのであまり気温が上がらない、過ごしやすい気候が影響しているのかもしれない。夏のさわやかさをぎゅっと凝縮させた町、それがいとしのスリーヴスた。
長旅におなかを空かせていたわたしは、大きなえびが殻ごと炉端で焼かれていたり、ガーリックの焦げる匂いがたちこめていたり、そんな刺客たちに行く手を阻まれる度網の上のえびのようにぐにぐにと身体を曲げていた。わたしはこの地に、タメーリックライスを食べに来たわけではなくて、ここからもっと奥に入った、知人の家を訪ねに来たのである。このような誘惑には負けぬと肩をいからせて通りを進むけれど、髭面のおじさんにパプリカ・スナックを差し出された瞬間、いとも簡単に肩幅は融け落ちてしまった。
わたしは旅行の楽しみの多くを、つい、食べ物に費やしがちで、それを度々反省はするのだけれど、こうして目の前でやわらかな湯気を立てられてしまえば形ばかりの反省など砂の城のごとき軟弱さで波に浚われてしまう。結局、パプリカ・スナックが入った紙コップと、ライム・ジュースの瓶で、両手を塞ぎながら通りを歩く羽目になってしまった。パプリカ・スナックは色とりどりのカラーピーマン(甘くて、肉厚のもの)を細くスティック状にしてスパイスをつけてからりと揚げたもので、さくさくの衣の中は甘く瑞々しく、非常に「ながら食べ」にふさわしいおやつなのである。今日のわたしは「歩きながら食べ」であるが、「映画を観ながら食べ」も大層魅惑的だ。
そのあとも、時折試食を押しつけられては足を止め、を繰り返し、わたしはようやく港から離れた住宅地へとやってきた。
海岸通りから離れたこのあたりは非常に静かで、涼やかな風が芝生を撫で、わたしの帽子もふわりとかすかに持ち上げるようにしながら、さわさわと遠くへ吹き抜けていく。目を瞑って耳を澄ますと、遠くに港のざわめきが聴こえる一方で、近くの家の開け放たれた窓からは、レコードだろうか、フリューゲル・ホルンとピアノの音がこぼれてくる。帽子がころがり落ちないぎりぎりの角度まで頭をもたげてから、目を開けると、あざやかな快晴と、まろやかな太陽、ゆっくりと天頂を移動する千切れ雲が見える。とても、さわやかだ。この町の、港のにぎやかさも、草原の清潔さも、わたしは大好きだった。
さて、わたしが今回訪ねたのはシャット氏とそのご家族である。
シャット氏は父の旧い友人で、文筆業をしている男性だ。食べ物の次に、いや、食べ物と同じくらい本というものが大好きなわたし、そして両親は、彼をよく家に招き、酒を飲み肴を食べながら読書談義に花を咲かせていたものだ。
こんど、そちらの近くに行きます。よろしければ、ごあいさつに伺ってもよいですか。ブラン・リリー急行のメール・サービスを使ってそのような手紙を送ったところ、間もなく彼からは「大歓迎です」と短くもありがたいリプライが届いた。そういうわけで、わたしはいくつかのおみやげと、おみやげ話を抱え、スリーヴスを訪問したのである。
シャット氏の邸宅は青い屋根と白い壁の、瀟洒な一軒家であった。呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、ぱたぱた、というスリッパの音が近づいたと思ったら扉が内側に引かれる。出迎えてくれたのはご夫人であった。前にお会いしたときよりも、綺麗な白髪がさっぱりと短くなっている以外は、やさしい笑顔も昔のままであった。
奥からシャット氏も現れて、わたしはそれぞれと固く握手をした。遠路はるばるようこそ、いえいえ、突然おじゃまいたしまして、いえいえ、あっこれはつまらないものですが、あっこれはなかなか、いえいえ、とひとしきり通過儀礼を行ったあとは、すっかり昨日振りの隣人のようにわたしたちは話をした。最近読んだ本の話。訪れた町の話。そこで食べたごちそうの話。わたしのおみやげ話に、シャット氏も、ご夫人も、頷き、微笑み、相槌を打ってくれた。
お昼ごはんを食べていないことに気がついたのは一時間ほども話し込んだあとであった。さきほどパプリカ・スナックをつまんだはずのわたしのお腹がぐうと鳴って、はっと口ごもり、それで発覚した。
「きみが来たら一緒に、と思っていたのに、すっかり忘れていたよ」
シャット氏が苦笑する。笑った拍子にぐう、隣でやや高くくう、とシャット氏とご夫人のお腹も鳴った。わたしたちは揃って、にやりと口角を上げる。
ピクニックをしましょう、とご夫人が云った。スリーヴスの人々はピクニックが大好きである。朝、すこしお寝坊をした休日などには、必ずと言っていいほど、ブランチとレジャーシートを抱えて家の外へ繰り出していく。ピクニックをするうちに、楽しくなって、どんどん人と食材が増え、大規模なバーベキュー・パーティになってしまうことも珍しくないという。
わたしと、シャット一家(シャット氏と、ご夫人と、ねこのマロ)は手早くピクニックの準備をし、大きなピクニック用バスケットとボトル、オレンジ色のレジャーシートを持って家の裏にある丘の上へと向かった。昼下がりの風は相変わらず心地好く、まことにピクニック日和である。意気揚々と丘をのぼるわたしたちのうしろを、ねこのマロが、のんびりとした様子でついてきていた。
丘の上のすばらしい一等地に、わたしたちはレジャーシートを広げて腰を下ろした。ここに来るまでの、ほんのちょっぴりの運動が、よいあんばいに空腹を盛り上げてくれている。
バスケットを開くと、ふわりとおいしそうな匂いがたちのぼる。今日のお昼ごはんは、まず、ご夫人特製のサンドイッチ。クリームチーズを塗って、スライスオニオンと自家製のスモークサーモンをはさんだものと、バジルソースで和えた鶏ささみと、トマトをはさんだもの。どちらもパンはほんのりと焼かれていて、グリーンリーフがはさんである。それから、フルーツサラダ。港でとれた小鯵や、白身や、えびをフリットにして、オニオンと一緒に甘いお酢であえたもの。
おのおの、膝の上にギンガムチェックのクロスを広げると、ボトルからよく冷えたレモネードを注いで、乾杯をする。口に含むと、微炭酸のぱちぱちが、清々しく喉を通りすぎていって、あとにはときめくような酸味とほのかな甘味が残る。すかさず、サンドイッチにかじりつく。バジルソースの塩と、トマトのすっぱさがちょうどよい。フルーツサラダにはマカロニも入っていて、よく胡椒がきいていて、おいしい。
わたしたちは夢中になってお昼ごはんを楽しんで、また、お話の続きも楽しんだ。非常にさわやかで、幸福な午後であった。わたしのおしりのうしろではねこのマロが、お酢であえていない小鯵をかじっていたが、しばらくしてお腹がいっぱいになったのか、わたしたちの会話に耳を傾けることもなく丸くなって眠ってしまった。マロの毛並みを風が撫でていく。見上げれば千切れ雲とともに、時間はゆっくりと町を流れていた。
2019/8/10