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オレンジ・ババロアーーブラン・リリー急行

 サンタ・クルスをたずねて、旅に出てみようと思う。

 思い返せば今年の2月から、わたしの生活といえばほんとうにひどかった。新しい街は、決して住み心地の悪い場所ではなかったし、慣れない仕事もはじめましての人たちも、狼狽えるばかりのわたしにとてもやさしくしてくれたのだけれど。きっと、風がよくなかったのだ。都会は風が通らないのだ。わたしは実家の窓から吹き渡る、カーテンをちぎれ雲にしてしまうほどのあざやかな夏風のことを思い出した。もう一度あの夏を浴びたかった。息ができなくなるまで肺に含んで、膨らむ夜に浮遊していたかった。

 オートミールは昔から苦手で、水気の多いミルクの中でふやふやとした澱になっている。くすんだ銀のスプーンでそれを掬って、咀嚼する度、なんとも言えずさみしくなるのだけれど、わたしは故郷に帰る理由を持ち合わせてはいなかった。
 時折届くエア・メールには、ブルーブラックのインクで、見慣れた母の走り書きが刻まれている。わたしはお気に入りのガラスペンにやや暗いビリジアンのインクを含んで、そのひとつひとつにありがとうだとか、心配ないよだとか、ありふれた言葉を返すのだ。わたしはいつだって言葉の魔法を信じていたはずなのだけれど、こういうとき、わたしの言葉はやけによそよそしく、たどたどしく、上滑りして白い便箋の上に散乱していく。魔法なんて存在しないのだと、ほんとうにつたえたいことはいつだって半分も届かないようにできているのだと、悪魔のような伝書鳩がくうくうとわたしを嘲笑していた。
 けれど、こうするほかないのだ。わたしはオートミールのように、都会の淀んだ風の中の澱になるのだ。ベルベットブルーの毛布にくるまって、今夜も短いピリオドを打つ。やさしい朝から逃げ出して、ひとりぼっちの夜をさかさまに駆け抜けていく勇気は、やはり、わたしにはないのだった。
 そんな日々を過ごすうちに、いてもたってもいられなくなって、わたしは旅に出た。実家へ、ではなく、サンタ・クルスへの長い旅である。然しわたしの心持ちは、ヘルマンではなくアバーコムビィ卿であった。わたしは、わたしの故郷がたしかに存在することを知っていたけれど、それが永遠ではないことも知っていた。父の年齢と、わたしの年齢と、1年365日と、この先の未来を、足したり引いたり掛けたり割ったりした。わたしには、サンタ・クルスが必要だったのだ。サンタ・クルスがいとおしかったのだ。

 まず乗り込んだのは、もちろん、ブラン・リリー急行である。移動手段として、これ以上にすばらしい乗り物を、わたしは知らない。うだるような夏を終えて肌寒くなってきた、9月の夕暮れ時のことだった。堅い切符をぱちんと切ると、伸びすぎた爪のしろい部分を落としたような、はればれしい気持ちになって、わたしはうれしかった。
 ブラン・リリー急行は、急行であり、街である。列車の中がひとつの街になっているのだ。少しずつ線路を継ぎながら世界中を走っているので、四季と言わず、十も二十も季節がたのしめる。
 最寄駅からそれに乗り込んだとき、季節はもちろん秋で、大きな窓を軋ませながら開けると、肺いっぱいに熟れたオレンジのさみしげな匂いがした。斜陽が瞼に沁みて、はらはらと涙が出る。うれしさと、さみしさの、それぞれの「し」を密に浴びて、わたしの双眸は融け落ちてしまった。
 やや硬い素材のベンチシートに腰掛けて、開放した窓枠に頬杖をつく。ブラン・リリー急行はゆっくりと車輪をまわして、砂埃をまきあげながら夕暮れ空の中を泳いでいった。オレンジ・ソースがこぼれるように濃密に、車内にビタミンカラーをふりまいて、反対に見下ろす畦道には、夜より深い長い影が伸びている。わたしは、幼い頃母がよくつくってくれた、ババロアのことを思い出した。冷蔵庫でつめたく冷やして、ほんのちょっぴり薬品のような匂いがするオレンジ・ソースをかけて食べるのだ。

「オレンジは、薬品であればあるほど、オレンジ、という自覚を身に纏いはじめる」
 そう言ったのは父だった。わたしはこの、薬品のようなオレンジ・ソースが嫌いで、食卓に並ぶ度薄皮のように顔をしかめていたのだ。こんなものより、はちみつや、カラメルや、なんなら何もかけないほうが、おいしいのに。
 父はぶ厚い眼鏡の向こうのわたしによく似た瞳を細めて、静かにババロアを咀嚼した。オレンジは、薬品であればあるほど、オレンジ、という自覚を身に纏いはじめる。それはもうほとんどオレンジではないのだけれど、オレンジから遠く遠く離れたところに行くほど、オレンジは、オレンジになるのだ。よくわからないとわたしが言っても、父はそれ以上何も言わなかった。昔から、口数の少ない人だった。よくわからないよとまた言いながら、結局わたしも、咀嚼した。ババロアはつめたくて、ぷるぷると頼りなくて、そして薬品の味がする。足を挫いたら湿布をするように、わたしは釈然としないおなかのなかに万能薬を流し込んでいた。オレンジという自覚、ってなんだろう。わたしは、わたし、という自覚をきちんと身に纏っているだろうか。わたしが纏うものといえばくたびれたシャツや重いコートや毛布お布団の類ばかりなのだけれど、そういうものは、わたし、なんだろうか。思い返して目を細めると、流れていく景色の中でわたしの前髪を揺らす風が、あのなつかしい薬品の香りで満たされていくような気がした。

 サンタ・クルスはまだ遠い。オレンジを肺に吸い込みながら、やさしい明日を希った。

2016/9/15

#サンタ・クルスをたずねて #短文

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