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終わり。そして始まり…

40歳になる今年。年賀状終いをした。
三十数年続けていることだし、社会的な慣習でもあることをやめるのは決断するのがなかなか思い切りがいることだった。

年賀状に否定的というわけではない。
むしろやりとりが面白くて好きだと思っていたし、素敵な年賀状をもらうとやっぱり嬉しい。

ただ、なんだかわからないけれど自分にフィットしない感じが年々増していくのを感じていた。
慣習を選ぶ方が平和かもしれないけれど、選ばない方にだって別の平和が待っている気がした。


昔からの付き合いだけど、年月とともに年賀状だけの付き合いになってきている友達も何人かいる。
知っているメルアドは今更繋がるかどうかも怪しいし、会っていた頃はLINEがなかったので、LINE交換出来ていない状況。
登録してもらえるかどうかはわからないけれど、ダメ元でLINEのQRコード入りの年賀状を送った。

年明け。
登録しましたの連絡。
あー、やっと繋がった!

少しやりとりをして、コロナの状況が収まってきたら会おうねと約束をした。


毎年『今年こそは会いたいね』とお互い書いていたし、お互いが元気じゃないと伝え合えないことだからこのやりとりができること自体が幸せとも思う。
ただ、連絡が年一回の年賀状しかない状況で『今年こそ…』と言えば言うほど虚しい気持ちにもなっていた(もちろん近況報告などのメッセージも書くけれど…)。
社交辞令の可能性もあるし、相手も同じように感じているかもしれないとも考えた。
でもそしたら尚のこと虚しい。

年賀状がフィットしないのは私にとっていつの間にか虚しさに繋がっていて、それだったらもっとワクワクする気持ちに繋げたくなったのだと思う。
ちょっと大袈裟だけど、自分で自分の未来を動かせた気持ちになれたのが嬉しかった。


足並みを揃えないと周囲の人達をザワついた気持ちにさせてしまうこともある。
私は自分の考えが絶対に正しいとは思っていないし、色んな考えをこれからも知りたいし、助け合ったり力を合わせたりと優しい気持ちで過ごせる環境に居たい。
でもそれは波風立てないようにということを軸に選択を繰り返しているうちに自分の心を置き去りにしていたとも言えるように思った。

年賀状終いを皮切りに、終えて始めることを他にも少しずつやってみた。
自分にフィットしないことは足並み揃えず終わらせても案外大丈夫で、結構平和だった。

終わらせたら次は自分に合った面白いことを始めたらいい。どうせ時代の流れもある。
自分の心に従って、創って壊してを繰り返していたらどんなところにたどり着けるのか見てみたい。

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