見出し画像

作品と私をつなぐ静かな対話

先日午後休を取って、とある展示会に足を運んだ。しかし、思っていたのとは少し違った内容だった。作品の前に立つと、そこには作者自身が今の作品をどういう気持ちで作ったか、一つ一つ解説する映像が長々と流れていた。また、展示されている各作品にも、「こんなことをイメージして作りました」という丁寧な解説が添えられていた。

だけど、そういった説明がかえってこちらの想像力を削いでしまっているように感じたのだ。「これはそういう意味なんだ」と言われてしまうと、それ以上に何かを感じる余地がなくなってしまう気がする。もっと、観る側に自由を与えてほしかった。言葉で伝えきれないからこそ、作品という形にするのではないだろうか。

同じような感覚は、ドラマを見ている時にも感じることがある。特に、ナレーションを多用するドラマだ。たとえば、「関係性を修復するには少しずつ進むしかない」といった大切なテーマも、ナレーションに読ませているとがっかりしてしまう。物語の中で自然に描いてほしい。登場人物がその過程を生き、言葉ではなく行動や表情で見せてほしいのだ。作者の主張を直接聞かされるのではなく、ドラマの登場人物たちがその世界で「生きている」と感じられるドラマが見たい。

不思議なことに、私は普段、絵画展では解説の音声ガイドを聞くのが大好きだし、作者の思いを知ることも楽しんでいる。それなのに、今日の展示会ではなぜか違和感を覚えた。なぜそう感じたのか、自分なりに考えてみると、作品が作者の後ろに隠れてしまっているように感じたからだろう。作品が主役であるはずなのに、作者のインタビューが強すぎて、肝心の作品が霞んで見えた。

作品そのものがメインであり、そこに作者の美意識や思いが自然に反映されている姿が好きなのだと気づいた。作品を通じて作者の世界に触れることが喜びであり、その世界が余計な説明なしに私たちの心に響く瞬間が好きなのだ。そんな、言葉を超えた対話を期待していたのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?