009.みどりいろの部屋
夏の蒸し暑い日だった。
七月の京都は丁度祇園祭の真っ只中で、前日から強い雨が降っていた。
そこにいるのは祭りを見に来た人が大半で、彼らはみんな巣を壊された蟻なんかみたいに忙しそうだった。
わたしもその一匹にすぎないのだろう。求められてもいない。行き先もわからない。
けどせかせかと歩かなくてはいられない。一生懸命なフリをして、本当の目的地もわからないまま。
行き交うひとのなか、わたしたちは何故だか一度も手を繋がなかった。
「何故だか」? 嘘つき。本当はわかっているくせに。
わたしは弱いのだ。
そしてそれを肯定するのが恐い。
京都のイメージは緑が多い。
それは部屋から見えたグリーンが印象的だったのか、はたまた外に緑なんかなくて
彼の部屋のカーテンが緑だったからか、今となってはもうあまり覚えていない。
わたしが覚えているのは、雨の中壊れそうな音を立てて走るミニクーパーと、
その中の寒すぎた空調。部屋に乱雑に積まれたたくさんの本と、ひどい深爪がよく似合う彼の指先。
それだけでよかった。
それ以上はいらなかった。
記憶から消してしまったものは他でもなく自分のために消した過去で、
消えなかった過去は、いつか必要になる過去なのかもしれない。
だからこうやって、今日みたいに書いたりするのだろう。
きっとわたしに必要な過去。今みたいに、雨降りの日には、特に。
外では洗濯機の音が響いていた。
暑い暑い、京都の夏。
刹那、ただ指が絡められた。ただ、それだけ。それだけだというのに、答えを渡されたような気がした。
すごく、嬉しかったんだと思う。
布団を抜け出してトイレで泣いたことは、たぶん彼には気づかれてなかった筈だ。
いつの間にか洗濯機は止まって、窓から差し込む柔らかい月明かりに
わたしは初めて今が夜だということを知った。
そそくさと布団に戻ると、向こうを向いていた彼が体重を移した。
汗だくになって、わたしの上でその滴を落としたときと変わらぬ表情で、彼は黙ったまま、うちわでわたしに風を送った。
汗ばんだ二つの身体と、彼の右手が運ぶ生ぬるい風。
戻ったときにもう手は繋がなかったけれど、トクトクと彼の心音が心地よかった。
今でも雨が降ると七月の京都を思い出す。
彼の吸っていたキツい煙草と、ラッパ飲みした野菜ジュース。
そして、もう二度と入れない 生ぬるい風が泳ぐ みどりいろの部屋。
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この文章を書いたのは確か、わたしが大学生の頃。
当時わたしは不毛な恋をしていて
一回り上のその人に夢中だった。
真っ直ぐな黒髪に眼鏡がよく似合う関西弁を話すその人は、
おばあちゃんからの「京大か東大に入ったら全額学費出したる」という言葉を受けて、あっさり京大に入学したけれど、
なりたいものもなかったと12年在籍していたと話した。
はじめは単純に遊ばれていたな、と思う。
けれどどこにでもいるような女子大生がよかったのか、彼はわたしと「お付き合い」をしてくれた。
京都と沖縄の遠距離恋愛。
親にも内緒で友達のところに泊まるなんて言って
時間を作って会いに来てくれた彼が
わたしの隣でこの沖縄にいるのが夢みたいで、
その先の未来を想像したりした。
そしてこういう恋愛によくあるようなすれ違いでわたしたちはあっさり別れた。
恋というのは世界を輝かせて見せてくれる。
彼が目の前で作ってくれたピーナツバターのホットサンドは魔法のようにおいしかったし
初めて飲んだブラックコーヒーは醤油みたいに不味かったけれど。
恐ろしい数の積まれた本の中に谷川俊太郎を見つけては大興奮して
褒めてくれたワンピースは暫くわたしのトレードマークになった。
単純だな、と思う。
でも、そんな自分がたぶん好きだった。
ふと、自分の年令から一回り分を引いてみる。
ああ。そうか。いつの間にかわたしは
あのときの彼の年齢になったんだなあ。
いつまでも追いつかないこの距離が
たぶんお似合いなわたしなんだろうと思う。
雨の降る沖縄で、久しぶりにそんなことを思い出した。
きっとわたしに必要な
いくつもの不器用な過去に肯定されながら
今日もわたしは世界の美しさによろこぶ。
今日も会いに来てくださってありがとうございます。
更新サボりすぎだけど、巻き返せ、る、かな。笑
それではきっと またあした。
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