返事じゃない言葉

返事じゃない言葉=自分の本当の欲求にもとづく言葉、と言い換えて差し支えないと思う。

生きる意味や2人(以上)でいることの意味について考えていたときに、オザケンのこの歌詞を思い出した。

相手の欲求に答えることで自分を免罪しよう、というのが第1位の欲求になってしまっている人がいる。
オザケン言うところの「返事」である。
色々な環境(経験)や遺伝的要因が関係して、そういう生き方が最も自分を幸せにするので、こうなってしまったのだろう。
でもこのような生き方は罠で、自分が生きる意味を作らない。
究極的には死ぬのが最適になってしまう。

本来、(歌詞にあるように)花を綺麗だと思い歌を歌いたいと思い、(歌詞が示唆するように)自分の好きな人と人生を共にし、子供を作って新たな人生を生み出していきたいと思うように、自分の欲求こそが、生きる意味と直結している。
ここで考えたいのは、花を綺麗だと思い歌を歌いたいと思うことは自分で完結できることだが、自分の好きな人と人生を共にし、子供を作って新たな人生を生み出していきたいという思いを満たすことは、自分以外の誰かとでしか成立しない。
だから人は、欲望に基づいた言葉(返事じゃない言葉)を「喋り出す」のである。
そういう日々のやりたいことの総体が生きる意味なのである。

返事を喋る人のほとんどは、無意識のうちに欲望を悪いものだと捉えている。
生きる人は逆に、己の欲望を満たすために生きていて、そのために他人が必要で、他人もまた欲望を満たすことでしか生きる意味がないことを知っている。
そのような共犯関係の中で2人は関係を結んでいき、お互いを満たしていく。

人生には終わりがある。
一見返事のみをする人達は、その無機的な反応から、死の世界に近いように思える。
ただそのほとんどは己の欲望を抑圧しているから、実は死の世界へのギャップが大きい。
死ぬ時には大きな執着と戦わなければならない。
自殺も難しいか、相当な熱量を持たなければならないはずである。

一方返事じゃない言葉を喋る人達は、己の欲望を満たすために他人の欲望と折り合いをつけ、互いを満たしていき、欲望が満たされた状態で死に向かう。
死と向き合うことを考えても、生きる文脈(欲望)と向き合うことは重要だと、
さっき思った

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