翻訳エッセイ#3 「文芸翻訳」において必要なもの
先日は上の「翻訳において必要な能力」について簡単に書いた。ここで文芸翻訳、すなわち文学作品において必要な、もう一つの能力について語りたい。
文学作品とその他の文章との間には大きな違いがある。それは感性である。
契約文章や説明書においては感性的なものはほぼない。というか極力排除されていて、できる限り淡々と述べられていく。
それに対して文学作品は「感情」なるものが大いに込められていて、とても感性的である。そして文芸翻訳者はこの感情、感性をどのように母国語で表現するかが問われる。
例えば
I want to eat something for dinner
を翻訳する場合
私は夕食として何かを食べたいです
と訳せるし
夕食としてなんか食べたいなぁ
とも訳せる。どちらが正解かというのはない。その文脈・位置付けによって変わってくるのだ。だがこの一文の訳し方だけでもだいぶ印象が変わってくるだろう。これだけも結構な差が物語において何回も起きることによって同じ作品でも翻訳者によって結構な印象の差が生じる。
これは先日の記事の「翻訳する内容の知識・理解」とは関連してくるものではある。作品についての知識があれば適切な訳し方はある程度はわかってくることもある。
だが今ここで述べているのは感性的なもので、どちらかというと文学的センス、芸術的センスと関わってくるものである。
このセンスというのは「才能」に依拠するところが大きいと思っている。
それも当然かもしれない。文学作品の翻訳というのは究極的には文学作品を擬似的に創作することである。創作においては「才能」という先天的な要素が大きく出来を左右するが、翻訳においてもある程度同様であろう。(とはいえ翻訳は「一から」創作するわけではないので、そこまで才能には左右されない。
このセンスというのは勉強やたくさんの文学を読むことによってある程度は身につけることができる。だが芸術の世界とは残酷なもので、あまり才能のない人間が一生懸命に創作した作品よりも、才能ある人間が適当に創作した作品の方がいい出来なのはザラである。
学者・研究者による翻訳と、創作家としての翻訳はこの「センス」「感性」という点において違いはあるだろう。
学者・研究者による文芸作品の翻訳は、作品についての膨大な知識・時代背景・文献解釈に基づいて「正確な」翻訳を提供する。それに反して創作家の翻訳は感情表現等に富んだ「生き生きとした」「面白い」翻訳を提供する。(ただしどちらも優れた力量を持っていることを前提とするが)
どちらがいいのかはわからない。両方とも優れている方がいいのは言うまでもないが。
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