「哲学を勉強する」「哲学を研究する」「哲学する」
哲学において誤解されているところが一つあると思っている。それは「哲学を研究する」ということと「哲学する」ということがごっちゃになっていることである。これについて「哲学を勉強する」ことも含めて、私の考えを述べたい。
「哲学を勉強する」、というのは基本的に哲学史上の知識を取得していくことが主である。古代ギリシャの哲学はどのようにして生まれたか、カントの形而上学はそれまでの哲学とはどう違うのか、ルソーの政治哲学の独創性は、ハイデガーは何を主張したか、等々である。基本的には知識の取得である。受験的な要素が強い。そしてこの「哲学を勉強する」の究極的な部分は哲学者の書いた作品(「パイドン」「純粋理性批判」等)を読むことである。また、「哲学を勉強する」ことの大きな特徴はそれ自体では何も生み出していないことである。
「哲学を研究する」は特定の哲学者や時代にスポットライトを当ててそれを徹底的に解剖していくことである。哲学者がその書物において述べた主張の解釈、誰それの哲学者はどれそれの哲学者にこのような影響を与えた、このような時代背景がその哲学者に対してこのような影響を与えた、等々である。基本的に砂を噛むような作業を行い、原典一ページに数時間かけることはザラ、400ページくらいの作品を一通り読むのに2、3年かけることも普通である。「哲学を勉強する」こととは違い、こちらは新たに何かを生み出していることである。そして基本的に論文形式として提出される。
「哲学する」場合、それは過去の哲学者や哲学作品は主対象にならない。人生、幸福、時間、空間、経済、世界、等々基本的に普遍的な要素が多い。基本的に書物における情報を土台としない。
この「哲学を勉強する」「哲学を研究する」「哲学する」の三点について象徴的に言及したのがデカルトだと思っている。
上のセリフと共に、デカルトは「勉強する・研究する」から「哲学する」へと移行したのだ。
さて、私がこの記事で一番焦点を当てたいのは「哲学を研究する」ことと「哲学する」ことの混同である。
「哲学を研究する」場合、基本的に大学院に行かなければならない。研究する対象となる哲学者の作品、そこから派生する多数の論文、そして語学(カントならドイツ語、ベルクソンならフランス語という具合)も学ばなければならない。
それに対して「哲学する」場合、大学院には別に行く必要がない。「人生とは何か」「幸福とは何か」を考えるにおいて、まず重要なのは自分で考えることである。そしてそのためには自分の人生をしっかりと生きることだと思っている。外国語は勉強する必要はないとも思っているし、極論すれば哲学作品を読まなくてすらできるものである。「哲学する」場合、世界と自分の人生、それこそが参照とすべき文献なのだ。そして「哲学する」場合、それは必ずしも論文形式である必要もない。プラトンは対話編を用いたし、ヴィトゲンシュタインの「論考」もご存じ論文形式ではない。もっというなら、書くという営みすらもないこともある。「自分は何のために生まれてきたのか」等、そういったことを人は知らず知らずのうちに「哲学する」ことをしていることもあるのだ。あるいは人との会話で知らず知らずのうちに「哲学する」ことをやはりしていることもある。
ただ哲学作品を読まずとも「哲学する」ことはできると言ったが、これはあくまで理論上の話で、私としては作品を読むべきだとは思う。少なくとも第二次世界大戦くらいまでに出た著名な哲学作品はできる限り全て一度は目を通すべきだとは思っている。
ただ「哲学する」ためには、読んだ作品や哲学者の意見にいつまでも拘泥していてはダメである。つまり、「カントはこう言ってた」「ハイデガーはこう言ってた」という具合に引用が多ければ多いほど、それは「哲学する」ではない。「哲学する」において最も肝要なのは何よりも自分の頭で考えなければならないことである。
そして重要なことなのは例え哲学作品を読んでいたとしても、自分で疑い考えずに内容をそのまま鵜呑みにするならば、それは哲学ではないということである。
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