投資の引き際について語るか
何か株価が暴落しているらしい。
それに伴ってこんなツイートを見た。
そこで俺の名前が上がるのかよ。確かに俺は投資を勧める記事を書いているけれど、この文脈で真っ先に名前が上がるの?
さらに連続でこのようにツイートは続く。
「ネットの投資を進めるアルファブロガー達は絶対に暴落のことは言わない」か。俺はどうだったかと投資記事を見返してみた。俺が最初に書いた投資を勧める記事はこれである。
めっちゃ暴落のことを書いている。タイトルで書き、概要で書き、本文1行目でも書いている。ここまで暴落のことを書いている投資奨励記事も珍しい。
では他の記事ではどうだろうか。めっちゃブクマがついたこの記事はどうだろう。
この記事は俺の投資遍歴を語った記事であるので、暴落の危険性を強調したりはしていない。それでもこれくらいは触れている。
体験した暴落だけでなく、将来の暴落についても正直に書いている。
これに続けて書いた記事はどうか。
投資には信仰が重要だという記事でありながら、全てを捧げるのはやめろと言っている。また、この後に投資の基準として、収入の「10分の1」を捧げることを提案した。10分の1ならば、たとえ半分に暴落したとしても、失う金額はたかがしれている。
さらにこの記事は極めつけに、こんな話を載せている。
みんな大好き「靴磨きの少年」の逸話である。これでも暴落について語らないと言えるのか?
後は寄稿した記事についても触れておくか。
この記事は投資に関して具体的に何をするべきかを語っている。なので資産の増減については基本的に語らない。むしろ勝手に貼られた超絶的に楽観的なシミュレーションをわざわざ削除してもらったくらいだ。
それでも暴落については軽く触れてはあった。
以上のように、俺は毎回のように株価暴落について触れている。「絶対に触れない」とは何なのか。他の人と間違えているのでは? あるいは俺以外に骨しゃぶりというブロガーがいるか。
一方で、ツイートのこの主張はどうだろう。
確かに俺は引き際については語っていない。だからここで語るとしよう。
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