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東大生ラッパーと大雑把につかむ世界史【東南アジア世界史】

 みなさんは東南アジアに、どんなイメージをもっていますか? まず、熱帯で雨が多い、というイメージがわくかもしれません。まさにその通り、東南アジアは非常にジメジメして暑い世界です。島も多く、水が多い、そんなイメージもよいと思います。そのため、古くから海の交易路が発達し、人々が行き来しました。島が多いこともあって、多様な文化や宗教も根付いています。同時に、資源や産物(コメ、香辛料、石油などなど)が豊富であることもおさえておきましょう。

 さて、この複雑な東南アジアを細かくみていくのは非常に大変です。まずは、大きくふたつに地域を分けてみましょう。一つは、大陸部。まさに大陸にくっついているインドシナ半島を中心とした地域です。もう一つは、島嶼部(とうしょぶ)マレー半島と細かい島々をあわせた地域です。

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国家形成の時代

 では、まず大航海時代以前をみていきましょう。この時代は、外から入ってくる文化と、東南アジア独自の文化が混じっていく様子に注目しましょう。

 「輝かしい時代」(紀元前後)に海の道が成立しました。これにより、港が非常に発達し、港を中心としたくに(港市国家)である扶南林邑(チャンパー)が成立、繁栄しました。

 華南や北部ベトナムは秦漢帝国の支配下にあります。こうして北部ベトナムは唐の時代まで「中国化」が進みました。

一方でその他の多くの地域では4世紀末から5世紀に「インド化」が進みます。東アジア(中国)の勢力拡大に対抗する、そんな動きとしても捉えられるようです。

 このようななかで、6,7世紀以降、多くの地域で国家形成の動きがみられます。大陸部の方がやや早く、少し遅れて島嶼部でも形成がありました。大陸部には、扶南を倒したカンボジア、現在のタイに建てられたドヴァーラヴァティー、ビルマのピューが成立しました。島嶼部では、スマトラ島とマレー半島にまたがるシュリーヴィジャヤ、ジャワのシャイレーンドラなどが繁栄しました。

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 8,9世紀にムスリム商人が海の道で活躍するようになり、ムスリム商人のネットワークが成立しました。10世紀には中国商人も東南アジアの交易に参入するようになり、海の道は非常に発展することになります。

 交易路に位置したチャンパージャーヴァカ(シュリーヴィジャヤの後継とされる国家)が栄えます。また、農業国家が国力を伸ばし、港市を支配して交易を握ろうという動きもみられました。大陸部では、中国から自立したベトナム北部(大越)や大陸部の覇者となったカンボジア(アンコール朝)、ビルマのパガン朝が、島嶼部ではジャワの国家が栄えました。

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 同時に外来文明を自分たちなりに消化し、独自の文化を形成する動きがみられます(およそ9~14世紀を東南アジアの古典時代ということもあるそうです)。ジャワのボロブドゥール、カンボジアのアンコール遺跡(アンコール=ワット、アンコール=トム)、ビルマのパガン遺跡群などはその例です。

 13世紀のモンゴル帝国・元は東南アジアではあまり威力を発揮できませんでしたが、ユーラシアを大きく覆う大交易圏が成立し、東南アジアの交易も大いに発展しました。13世紀モンゴル時代、そして14世紀の危機の中で、もともと中国南部にいたタイ系の民族が南下し、勢力を拡げます。タイ人はビルマ人と同じように上座仏教(仏教のひとつ)を受け入れたため、これ以降大陸部には上座仏教が定着することになります。

大航海の時代(15世紀以降)

 大航海の時代には、ムスリム商人に加えてヨーロッパ人が交易に加わり、さらに中国人の進出も加速しました。そのなかで、16~18世紀には現在につながる伝統社会が確立します。

 島嶼部では、交易の中心に位置したマラッカという国が15世紀に繁栄しました。マラッカはイスラーム国となり、これを中心に島嶼部ではイスラームが広がることとなります。つまり、大陸部では上座仏教、島嶼部ではイスラームという、ほぼ現在の宗教分布にかさなる構図ができあがったのです。

 大陸部では、18世紀に、ビルマのコンバウン朝、タイのラタナコーシン朝、ベトナムの阮朝という大国が登場し、19世紀前半には空前の領域を支配して互いに争いました。一方カンボジア・ラオスは弱体であり、この構図は現在の各国の領土にも反映されています。

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 一方交易に頼っていた島嶼部は、17世紀の危機による交易の縮小で、大きな打撃をうけます。島嶼部の弱体化も背景にヨーロッパは、交易を握るよりも直接に支配し、商品作物を強制的に作らせる、といった方法をとるようになっていきます。

植民地化の時代

 大陸部は東アジア同様、19世紀半ばから植民地化の波にのまれます。ビルマは1885年にイギリス領(1886年インド帝国に併合)となり、1887年にはフランス領インドシナが成立しました。

 少し遅れて、島嶼部も19世紀末以降に本格的な植民地化が行われました。1910年代にオランダ領東インドが完成、20世紀初頭にはイギリス領マレーが成立しました。スペイン領だったフィリピンは、1898年の米西戦争(合衆国とスペインの戦争で、合衆国が勝利)の結果、アメリカが独立運動を鎮圧したのち植民地化しました。

 こうして全域で植民地化が完成しました。ただしタイだけは、近代化を積極的におし進め、植民地化をまぬかれて独立を維持しました。

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 第一次世界大戦は、東南アジアの地図を大きくは変化させません。しかし第二次世界大戦は違いました。1929年にはじまる世界恐慌をうけて、ブロック経済で対応したイギリス・フランス・合衆国に対し、ドイツや日本は対外進出(侵略)による解決をはかりました。

 日本は、「大東亜共栄圏」の構想(日本中心に、アジアに新たな秩序を作ろうという構想)を打ち出し、東南アジアに進出します。太平洋戦争中に日本は、蒋介石を支援するルートを断ち切るべく大陸部に、石油などの資源を獲得すべく島嶼部に、進出しました。日本は一時、東南アジア全域を支配するまでに至りました。当初は、各地が歓迎ムードでこれを迎えたようですが、すぐにそれは冷めます。日本に、東南アジアの経済を支えるほどの力はなく、労働者の待遇なども悪かったため、反発が強まったのです。

20世紀後半 独立と苦悩

 日本がポツダム宣言を受諾すると、東南アジア各国の民族運動家はすばやい動きをみせます。とくにアメリカとイギリスの領土だった国々は話し合いによって、おおむねスムースな独立を果たしました。

 一方、オランダやフランスの植民地はそうはいかず、インドネシアとインドシナは独立戦争を起こしました。インドネシアは独立を勝ち取り、第三世界の結集を訴えたアジア・アフリカ会議もインドネシアで開かれました。

 ベトナムは、独立戦争でフランスを追い出すのですが、アメリカが南部を占領してしまいます。そして休戦協定のさいには、北の社会主義国と南の資本主義国(アメリカが支援)に分裂してしまいました。南北間でおこったのがベトナム戦争です。

 ASEANは、ベトナム戦争中に、反共軍事同盟(社会主義陣営に反発する軍事同盟)として発足したものです。アメリカが、これ以上東南アジアに社会主義陣営を広げないために推し進めた構想なのです。当初はこのような政治的性格をもつものでしたが、やがて経済協力という性格を前面にうちだし、最終的にベトナム含めほとんどの国が加盟するものとなりました。東南アジアの急速な経済発展を背景に、有力な地域連合の一つとなっています。

今回は以上になります。最後にラップで復習しましょう!
https://youtu.be/6NMnQ1cuJ-0


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