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【東大世界史】1950年問題

 このノートは、「東大世界史宝箱」の1950年(問題)のページです。解答の指針と答案例はこちらからご覧ください。
 また、ノートの性質上、空欄を括弧で代用したり、下線や枠を太文字での強調で代用したりしている場合があります。
 なお、東京大学は、解答・解説を公表しておりません。

第1問

 下に記した項目のうちかち、次の文章の空白を埋めるのに適したものを選び、その番号を解答欄に記入せよ。 

 (a)から(b)にわたる時代に、アジアの東西には二つの優れた文化が栄えた。一つは東の(c)の文化で、その特色は(d)且つ(e)な点にあった。それはまた周囲の諸国(例えば(f)、(g)等)に伝播した。我が(h)の御物の中に、(i)の工芸の影響の著しい織物が遺っているのはその一例である。他方、西アジアでは(j)文化が(k)、次いで(l)の上で栄え、東に拡がったばかりでなく、(m)の北岸に沿って西へ、(n)に渡った。それは(o)の学術思想を承けついでおり、(p)を中心として一学派をなし、(q)によって新しい文化を創造し始める前の(r)ヨーロッパにとつては一つの光明であった。(s)と(t)とは当時の世界の富と文化との二大中心地であったのである。

①朝鮮 ②ルネッサンス ③長安 ④アレキサンドリヤ ⑤アッバス王朝 ⑥正倉院 ⑦ギリシヤ ⑧貴族的 ⑨バルカン半島 ⑩民族的 ⑪五世紀 ⑫イスラム ⑬南詔 ⑭ササン朝 ⑮コルドヴァ ⑯イベリヤ半島 ⑰ウマヤ王朝 ⑱宋 ⑲庶民的 ⑳九世紀 ㉑國際的 ㉒臺灣 ㉓アラビア ㉔洛陽 ㉕唐 ㉖中世 ㉗アフリカ ㉘ローマ ㉙七世紀 ㉚バグダッド

第2問

 次の文章の中の空白の箇所に最も適当な語句をあてはめ、答えを解答欄に記入せよ。

 英語とフランス語とイタリー語とドイツ語とロシア語とを比較してみると、言語の基本的な性格として(a)語と(b)語・(c)語と(d)語は相互に類似点が甚だ多くて同じ語派に属し、他の一つは別の語派に属することがわかるが、広くみるとこれらはいずれも同種の言語であって、更にアジアに行われているペルシア語や(e)語とともに一大語族を形成している。古くから西南アジアに起った有力な国々の言語はアッシリア語を初めとして(f)語族に属するものが多く、旧約聖書を書くのにつかわれた(g)語も又同類である。蒙古語と(h)語は同じアルタイ語族であり、音詞の抑揚に著しい特徴のある(i)語はチベット語とともに一語族をなしている。東アジアの諸語の中で(j)語は、他の言語との類似が少なくて、古い文献が沢山あるにかかわらず、その系統がまだよくわからない。

第3問

 次の10項目の各につき正しいものには○、誤れるものには×をつけよ。

 ①ヨーロッパの封建制度と、中国の周代の封建制度とは、一見似たところもあるが、その性質はちがっている。
 ②3世紀から5世紀にわたる北方民族の移動は、ヨーロッパ諸国に対しては大きな打撃をあたえたが、東アジアには大した影響をあたえなかった。
 ③12・13世紀になると、西洋でも日本でも、都市が政治的自由を獲得するために活躍をはじめた。
 ④人民による革命を是認したロックの思想は、アメリカの独立とフランス革命勃発に大きな影響をあたえた。
 ⑤17世紀に伝わったキリスト教の思想は中国にうけいれられ、その社会に大きな影響をあたえた。
 ⑥ロシア革命の成功は、中国の国民党の活動に大きな影響をあたえた。
 ⑦第一次世界大戦後国際連盟に加入した東洋諸国は、終始協力して世界平和の維持に貢献した。
 ⑧西洋では歴史時代に文明の中心が漸次西、北方に移動し、中心となる民族が度々交替したが、中国やインドではそのようなことがあまり起らず、文明は早く成熟した。しかし刺戟が少なく、これが社会の停滞の大きな原因となった。
 ⑨中国文明とインド文明は、相互の交流がおこなわれたにもかかわらず、本質的には融合しなかった。
 ⑩法隆寺の建築には中央アジアを介して伝わったヘレニズムの影響が認められる。


第4問

 下に示した項目のうちから、次の文章の空白を埋めるに適したものを選び、その番号を記入せよ。

 地理上の発見以後西洋人が相ついで東洋に進出したが、その顔ぶれはヨーロッパにおける各国の勢力の変遷にともなって変化した。日本には最初(a)がインド洋から(b)を経由して渡来し(c)を伝えたが、その結果(d)がおこって国内の形勢を転換させる一原因となった。ついで太平洋航路を開いた(e)が(f)を根拠地として渡来し、(g)を伝えたが、その急速な拡大によって日本に与えた影響は、後年(h)の一因となったことを考えただけでも、中国の場合にくらべてより深刻であったことがわかる。16世紀の末頃からハプスブルク家の旧教政策に反抗して独立した(i)が東洋に進出し、一時世界商業の覇権を握り、(j)年以後も引続き日本と貿易を続けた。しかし17世紀末頃には国内羊毛工業の発達を背景として進出した(k)が覇権を奪い、7年戦役の際(l)をも圧倒して(m)の支配権を握った。彼等はそこからさらに(n)に進出して(o)の貿易を行い、これを厳禁した(p)を屈服させて(q)で正式に貿易港を開くこと約束させた。時に(r)年で、日本がアメリカの要求によって開国したのはそれから11年後であった。日本及び中国の近代化は、最初外力の圧迫によって促進される所が大きかったが、(s)及び(t)はその最も重大な契機であったといえよう。

①イスパニア人 ②ドイツ人 ③イギリス人 ④オランダ人 ⑤イタリア人 ⑥フランス人 ⑦ポルトガル人 ⑧ゴア ⑨広東 ⑩インド ⑪マカオ ⑫マニラ ⑬南京条約 ⑭天津条約 ⑮ザヴィエルの来朝 ⑯ペリーの来朝 ⑰アヘン戦争 ⑱鉄砲 ⑲羅針盤 ⑳清朝 ㉑天主教 ㉒新教 ㉓戦術の変革 ㉔封建制度の崩壊 ㉕1854 ㉖1639 ㉗1842 ㉘茶 ㉙アヘン ㉚鎖国

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