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東大生ラッパーと大雑把につかむ世界史【アフリカ史】

 アフリカ大陸は、主にサハラ砂漠以北の北アフリカと、それ以外のサハラ以南のアフリカに分けられます。北アフリカは地中海世界の一部として、ローマ帝国の版図に組み込まれていました。西ローマ帝国が滅亡し、東ローマ帝国も領土を縮小させるなかで、この地はイスラーム世界の一部として、いくつものイスラーム王朝が支配しました。

 一方サハラ以南のアフリカはその間も独自の文化を育んでいました。今回は主にサハラ以南のアフリカの歴史についてみていきましょう! まずは大航海時代より前の歴史です。

大航海時代以前

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 最古の黒人王国といわれるのが、ナイル川流域にできたクシュ王国(前10世紀頃成立)です。(新王国滅亡後の)エジプトを一時支配するまでに至りました。しかしその後、西アジア世界のアッシリアという帝国に侵入され、南方のメロエという地に都を移します。これ以降この王国をメロエ王国と呼びます(前6世紀)。

 後1世紀にはエチオピアにアクスム王国という国が成立します。当時、地中海世界にはローマ帝国が繁栄していましたね。アクスムは、インド洋から紅海に至る海の交易路をおさえて、象牙などをローマ帝国に輸出することで繁栄しました。4世紀にはキリスト教を受け入れ、メロエ王国を滅ぼしました。

 アクスム王国は一度滅びますが、再びアクスムの血を受け継ぐと自称する王が国を建て、初代エチオピア皇帝となりました。エチオピア帝国という国が成立するわけです(細かく書くともっと複雑なのですが、受験世界史レベルでは全く問題ありません)。エチオピアは高原になっていることもあってイスラームの浸透が弱く、現在のエチオピアでも、国民の6割強がキリスト教徒です。

 次に東アフリカに目を移しましょう。イスラーム世界が成立した後、インド洋ではムスリム商人が活発に交易を行っていましたね。ムスリム商人はアフリカ東海岸とも交易を行い、東海岸は徐々にイスラームを受け入れていきました。10世紀頃には、いくつもの港を中心とする都市が栄えました。その後、東海岸独自の文化(バントゥー文化)とイスラーム文化が混ざってスワヒリ文化という文化が生まれました。現地の言語にアラビア語が取り込まれたスワヒリ語という言語も使われるようになりました(イスラームはアラブ人の間にうまれた宗教でしたね!)。

 ジンバブエでは、11世紀頃にモノモタパ王国という国が成立し、内陸の金などを沿岸に運んで、ムスリム商人との交易で栄えました。

 15世紀は、東アジア世界の明の艦隊が海上に進出しましたね。この艦隊の一部は、アフリカ東海岸にも到達しています。

 西アフリカをみてみましょう。7から9世紀にはガーナ王国が栄えました。今のガーナとは位置が違うことに注意してください。このころ、北アフリカにはイスラーム勢力が栄えていましたね。北アフリカのムスリム商人は塩を西アフリカにもたらし、西アフリカはムスリム商人に金を売りました。このような交易を塩金貿易といいます。塩と金は同じ重さで取り引きされたといいます。ガーナ王国は、このようなサハラをまたぐ交易(サハラ縦断交易)を保護することで繁栄しました。

 ガーナ王国は、北アフリカのイスラーム王朝のムラービト朝に攻撃されて衰退します。なおこの攻撃によって、アフリカ内部のイスラーム化が本格化しました。13世紀にはガーナ王国にかわってマリ王国が台頭し、ガーナ王国と同様に金の産地をおさえて、14世紀に最盛期を迎えました。マリ王国はイスラーム王国で、マンサ=ムーサという王が有名です。彼はイスラームの聖地メッカを訪問するのですが、その際に金を各地で大量にふるまったことで、各地の金の相場が大幅に下落したという伝説を持っています。

 15世紀には、マリ王国を圧倒したソンガイ王国が建国されます。ソンガイ王国も交易で栄えた王国です。


大航海時代以降

 15、16世紀の大航海時代にはポルトガルなどがアフリカ沿岸に拠点を作っていきました。スペインは主に西まわり、ポルトガルは主に東まわりでアジアを目指したことを覚えていますか? 16世紀にポルトガルが黒人奴隷をアメリカ大陸に輸送しはじめたことで、奴隷貿易が始まります。

 一方で、奴隷貿易は、たいてい現地の部族対立を利用したものでした。ある部族を味方にして武器などを売り、その部族と対立する部族を奴隷として連れてこさせる、こういった方法をとるのです。西アフリカのベニン王国(現在のナイジェリアに位置)、ダホメ王国(現在のベナンに位置)アシャンティ王国(現在のガーナに位置)などは、ヨーロッパに奴隷を供給することで繁栄しました。

 こうしてヨーロッパは、西アフリカで武器や綿製品を奴隷と交換し、アメリカ大陸に奴隷を運び、そこで作らせた作物などをヨーロッパに持ち帰る、大西洋の三角貿易を行うようになります。18世紀にはイギリスが三角貿易を独占し莫大な利益をあげます。一方でアフリカの人口は減少し、働き盛りの人口が流出したことで社会も停滞しました。

 19世紀になると、人口が減少したことで奴隷を捕まえるのに人もカネもかかるようになり、なかなか利益があがらなくなりました。こうして奴隷貿易は衰退・廃止に向かいますが、これでアフリカは豊かになったわけではありません。

帝国主義の時代

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 19世紀末には帝国主義の時代となり、アフリカは「無主の地」とみなされて、早い者勝ちでヨーロッパが植民地を拡大する、そんな土地になりました(帝国主義の時代のノートはこちら! アジアには半人前の文明が認められた場所もありましたが、アフリカではほとんど認められなかったのですね)。植民地を獲得することで、その土地の資源を独り占めして、自分たちが作った製品を大量に買ってもらおうとしたのです。

 イギリスとフランスが中心になって植民地を広げていきます。イギリスはエジプトから南アフリカにわたって、アフリカを縦に結ぶような土地を植民地にしようとしました(アフリカ縦断政策)。フランスは西アフリカや北アフリカ(アルジェリアなど)からジブチ(エチオピアの東に位置する地)にわたって、アフリカを横に結ぶような土地を植民地にしようとしました(アフリカ横断政策)。当然これらの政策はぶつかり、実際にファショダ事件という衝突の危機もありました。

 イギリスはこのほかにもナイジェリアやゴールドコースト(現在のガーナ)、フランスはマダガスカルなどもおさえています。

 これらに加えて、高校生以上の方は以下もおさえておきましょう。
・ドイツは4か所おさえましょう。トーゴ、カメルーン、南西アフリカ(現ナミビア)、東アフリカ(現タンザニアなど)です。
・イタリアは3か所おさえましょう。リビア(トリポリ・キレナイカ)、エリトリア、ソマリランド(現ソマリア)です。
・ポルトガルは2か所おさえましょう。アンゴラとモザンビークです。
・最後にベルギーのコンゴです。

 植民地化を免れたのは、西アフリカのリベリアという国と、エチオピア帝国だけでした。

20世紀以降のアフリカ

 植民地帝国同士が衝突した第一次世界大戦では、アフリカからも兵士や物資が動員されました。まさに「世界大戦」となったのですね。第一次世界大戦ではドイツがまけました。ドイツは全ての海外領土を没収されます。トーゴとカメルーンはイギリスとフランスとで分割され、東アフリカはイギリスの領地(委任統治領)、南西アフリカは南アフリカの領地(委任統治領)とされました。南アフリカは、1910年にイギリスにより広い範囲での自治が認められているので、このような書き方になっています。

 2度の世界大戦を通じて、イギリスやフランスにかわってアメリカ合衆国やソ連といった新たな勢力が台頭しましたね。イギリスやフランスはもはや植民地を維持するのが難しくなっています。アジア・アフリカ会議の成功をうけ、ついにサハラ以南のアフリカ最初の独立国がうまれます。1957年にイギリスから独立したガーナです。

 1958年にはギニアが独立、1960年には実に17の国が独立して「アフリカの年」と呼ばれました。しかし、アフリカの国々はさまざまな問題をかかえて、スタートすることになります。

 一つは、「どこのだれが国民国家を作るのか」という問題です。ほとんどの国は、帝国主義の時代にヨーロッパが自分たちの都合で引いた国境線に基づいて独立しました。そのため、一つの国の中にいくつもの民族が含まれたり、一つの民族がいくつもの国にまたがって住んだり、といった状況が各地でうまれました。紛争に発展するケースも多くありました。ナイジェリアのビアフラ戦争、スーダンの南北対立などが有名です。

 もう一つは、植民地時代に宗主国に対し、宗主国の求める資源や農作物ばかり輸出していた名残が残ったことです。なかなか工業などの他の産業が発達せず、その経済は独立後もそれらの資源や農作物の輸出に頼ることになります。すると、その資源の価格によって、国の経済が大きく左右されますから、なかなか安定しません。工業製品に比べて利益も少ない場合も多いです。現在もアフリカに貧しい国が多い原因の一つです。

 さて、アフリカの国々が独立した後、20世紀のほとんどは冷戦の時代でした。国によって、アメリカ合衆国についたりソ連についたり、あるいはどちらにもつかなかったりと様々でしたが、味方についた大国から援助をもらう国が多かったのは事実です。

 冷戦終結(1989年)はこのような状況に打撃を与えます。それまでは、自国の陣営にひきいれようと、独裁国家でも援助を与えていたケースも多くありました。しかし冷戦後は、カネを貸したりあげたりする際に、民主化や人権保護などを求めるようになるのです。どうせ援助するなら、権力者だけが得をするのではなく、国民にも恩恵がいきわたるようにしたい、という考えがあるわけです。援助が少なくなったことで、国民の不満が高まったことも、民主化、あるいはそれをめぐる対立を促進させます。

 こうして、冷戦下では独裁体制や軍政がしかれていた国々は、民主化、ないし紛争がおこることとなりました。ルワンダ紛争やコンゴ紛争は1990年代以降の紛争の代表例です。外部の圧力により民主化した国も多いですが、複数政党制に基づく民主制がかなり広がったこともおさえておきましょう。

 今回は以上になります。最後にアフリカ史のラップで復習しましょう!
https://youtu.be/ldr9owL3h4E

ぜひ機会があったらアフリカに足を運んでみてくださいね!

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