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【東大世界史】1951年問題

 このノートは、「東大世界史宝箱」の1951年(問題)のページです。解答の指針と答案例はこちらからご覧ください。
 また、ノートの性質上、空欄を括弧で代用したり、下線や枠を太文字での強調で代用したりしている場合があります。
 なお、東京大学は、解答・解説を公表しておりません。

第1問

 次の文中の空欄中に入る適当な文字を考え,これを答案用紙の(へ)の枠内に記入せよ。

 ギリシアの歴史家でペルシア戦争の歴史を記した(1)と,少しおくれて(2)戦争のことを述べた(3)が,何れもその著書の巻頭に自分の名前を明記し、市民の立場に立った歴史記述をなしたのは,一見,珍しいことではないようであるが,オリエントの二大文明の発生地(4)と(5)に,ほとんど年表以上のものが生れず,独特な宗教的歴史観を旧約聖書に展開した(6)の歴史記述も編さん物に過ぎなかった。また(7)のような讃歌集や、ぼう大な敍事詩を作ったインド人も史書を全くのこさず,漢代のすぐれた歴史家(8)の著わした史記や班固の筆になる(9)も支配者の業績を主とした史書であり、日本の(10)以下の六国史も官撰の歴史であったことに比べると、これらのギリシアの歴史家の特色が自ら理解出来よう。

第2問

 (A)の文章を読んで下線の箇所(①~⑦)につき,(B)の問に答えよ。解答①~⑦は夫々答案用紙の(ト)の1~7の枠内に記入すること。

(A)
 東洋では三・四世紀の交に,北・西の外民族の中間移住が盛んであっ たが,西洋でも,ローマ帝国の末期から前後数世紀にわたって,ヨーロッパ及びその周辺の各地域で,大規模な①民族移動が相ついでおこった。その結果,古代地中海世界の構造は一変し,そこにほゞ独立する②三つの世界(文化圏)が成立した。この民族移動期を通じ,西ヨーロッパの主要部では,都市は,荒廃し商業は衰え,地域ごとに自給自足する封鎖的自然経済が支配したが,同じ頃,ヨーロッパの東西には,なお世界商業の拠点として栄え,かつて二大文化圏の中心としてギリシア文化の伝統を保存する③二つの都市が並立し,それぞれ近代ヨーロッパ文化の形成の過程において注目すべき役割を演じた。
 十字軍以来,西ヨーロッパでは内陸商業の復活と共に,遠隔地貿易が発達し,それによって多くの商工業都市が勃興する機運に恵まれた。 特に④東の原産地から(a)人の手によって西南アジアまでもたらされた産物を(b)沿岸から北イタリアの商業都市に運び,こゝから更に内陸の市場に仲継する貿易が盛んになった。イタリアやハンザ同盟の中心となった北ドイツの貿易港の外に,⑤西ヨーロッパにおける(a)東洋商品の主要な仲継市場(b) 毛織物工業の中心地(c)重要輸出品である銀の生産地などにも,次々に有力な都市が勃興した。中世末期におけるこれら自由都市の活躍は,⑥封建制度の崩壊を促進し,中世西欧社会に転換をもたらす有力な一因となった。更に15世紀末に始まったイスパニア,ポルトガルを中心とする地理上の発見は,ヨーロッパの経済社会の近代化を決定的に促進すると共に,世界を一体化する直接の契機をなした点で,まさに世界史に一時期を画したものといえよう。以後先進国を凌ぎ世界商業を支配するに足る工業生産力と海上勢力とを建設し得た国家が,次々に海外市場と植民地における覇権を握った。16世紀以来相ついで,⑦東洋に進出した西欧国家の勢力の消長は,端的にその事情を反映しているといえよう。

(B)
①各地域の代表的な民族移動の例(民族名)三つをあげよ。
②それは,何と何を指すか。
③その都市名をあげよ。
④a,bは各々何を指すか。
⑤次の都市の中から(a)(b)(c)の適例を一つずゝ選び記号を附して書け。
リスボン,フロレンス,アウグスブルグ,ブリュージュ
⑥次にあげた四つの理由の中,最も重大な原因をなしたと思うもの二つを選び,その記号のみ記入せよ。
(a)都市同盟が武力により有力な封建諸侯を屈服させた。
(b)都市の自由な思想が農村に影響し農民の解放を促進した。
(c)都市の貨幣経済が農村に拡大して荘園制度の解体を促進した。
(d)都市が農村の人口を大量に吸収して,多くの荘園が荒廃し封建領主が没落した。
⑦下記の地名はヨーロッパの五ヵ国が東洋に進出して最初に建設した重要根拠地である。これらを建設の古い順に左より(a)(b)(c)……の記号で排列し,各記号には夫々建設した国の名を附記せよ。
(a)バタビア(b)ボンベイ(c)ゴア(d)マニラ(e)ポンディシェリー


第3問

 19世紀の半を終った頃,世界史はあらゆる点で転換期にのぞんで いた。1850年の世界情勢について述べた次の1~10の諸文章の中,妥当と思われるものには○,誤ったもの,不正確な点を含むものには×を,答案用紙の(イ)に記入せよ。

(1)1848年の革命を経験したフランスでは,ナポレオン三世が帝位についている。オーストリアでは同じく1848年,ウィーン会議以来ヨーロッパの反動勢力の中心であったメッテルニヒが失脚した。
(2)この時期のヨーロッパの諸変革には,既に労働者階級の勢力を無視することができない。「共産党宣言」も発表せられている。
(3)プロシアでは,軍国主義によるドイツ統一への機運が進んでいる。
(4)資本主義の発達の点で優位にあるイギリスでは,穀物法や航海条例も廃止されるなど,自由主義的な道を進みつゝあるが,一方ではチャーティストの運動はなお衰えず,社会問題は依然として深刻である。その結果,植民政策の強化が切実に叫ばれている。
(5)革命の機運は,後進諸民族をも動かさずにはおかない。東ヨーロッパでは,ポーランドやハンガリアの独立運動があり,ロシアはポーランドの反乱を弾圧したが,オーストリア領内のハンガリア人を支持して,バルカン方面への進出に利用しようとしている。だがバルカン一帯の民族運動はトルコに圧せられて,まだヨーロッパ人の独立国は存在していない。
(6)東洋の意義も重要となった。イギリスはホンコンを領有しており,ロシアの領域は遠くアラスカまで延びているが,黒竜江北岸の領有には成功していない。
(7)中国内部の秩序は乱れ,ついに太平天国の反乱がおこった。
(8)イギリスのインド経営は,東インド会社の手から,政府の直接支配に移された。
(9)西半球に眼を転ずると,アメリカは西方へ発展して,すでにカリフォルニアに到達している。
(10)このような情勢下に,日本には既にアメリカのペリーが来航していた。

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