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日蓮聖人の御生涯

〈プロローグ〉

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今から八〇〇年前のこと、武家である鎌倉幕府と、
京の朝廷との均衡(きんこう)が、
ついに崩れる時が来ました。
承久(じょうきゅう)三年、
朝廷は政治の主導権を守ろうと
幕府の討伐(とうばつ)を命じられたのです。
神仏の加護を信じて、官軍は必死に奮闘し、
天台宗からは比叡山延暦寺と、
三井(みい)の園城寺(おんじょうじ)、
真言宗からは仁和寺(にんなじ)等、
名だたる本山の高僧たちが、
秘術を尽くして幕府調伏の祈祷を続けました。
しかし、わずか三十日で朝廷側は敗れ、
後鳥羽上皇は隠岐(おき)へ、順徳上皇は佐渡へ、
土御門(つちみかど)上皇は土佐へ流されました。
こうして、国の主(あるじ)である朝廷が、
それに従うはずの武士によって権力を奪われ、
武家政治が始まったのです。
なぜ、神仏への祈りが叶わなかったのでしょう。
時まさしく、名ばかりの仏法は広まっていようとも、
修行もままならず、
覚りも失われるという「末法」の始め。
そんな、混乱と争いに満ちた時代の幕開きに、
世の人々は大いに不安をつのらせるのでした。

一、御降誕

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鎌倉幕府が政権を勝ち取った翌年の、
貞応(じょうおう)元年。
あたかも、お釈迦様がご入滅された日の翌日に当たる
二月十六日のことです。
太平洋をのぞむ千葉県は安房(あわ)の国、
東条郷(とうじょうごう)小湊という漁村で、
夜明けとともに、不思議な出来事が起こりました。
海一面に蓮の花が咲き乱れ、
そのまわりでたくさんの鯛が飛び跳ねたのです。
その時、漁師の貫名次郎重忠の家では、
庭に泉が湧き出したかと思うと、
一人の男の子が誕生しました。
「こんな不思議なことが起こった日に
 生まれたのだから、
 きっと偉い人になるに違いない」
この出来事は、たちまち村中の評判になりました。
母の梅菊は、太陽のような暖かい心を持った
善い子に育ってほしいと願い、
男の子に「善日麿」と名付けました。
そして善日麿は、両親の愛情と、
小湊の人々の優しさに育(はぐく)まれ、
すくすくと成長しました。

二、御出家

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幼少の頃より、正直で利発であった善日麿は、
次第に世の無常、
とりわけ人生において避けては通れない、
生と死の苦しみについて、
深く考えるようになり、
その答えを仏法に求めようとしました。
しかし、念仏を弘める高僧が、
極楽浄土への往生を説きながら、
その臨終の様が醜く苦悶にあえいだ姿であったこと。
また、日本には十宗もの仏教寺院が
甍(いらか)を連ねていても、
どの教えが、お釈迦様の御心にかなう、
成仏の法なのか明らかでないこと。
さらには、先の「承久(じょうきゅう)の乱」で
神仏への祈りが叶わず、
朝廷が幕府に屈して、
主従関係が転倒した国となったこと。
それら人生と仏法、
そして国家に対する疑問を解決すべく、
善日麿は、十二歳で小湊の古刹である清澄寺に入り、
名を「薬王麿」と改めました。
そして十六歳の時、
師匠の道善房について出家得度してからは
「是聖房蓮長」と名乗られ、
猛烈に勉学されると共に、
清澄寺の虚空蔵菩薩像の前にて
「日本第一の智恵を持つ者となしたまへ」と、
日々祈願されました。
するとついに満願の日、
尊い僧侶の姿をした虚空蔵菩薩より、
輝く智恵の珠(たま)を授かったのです。

三、近畿遊学

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蓮長法師の求道は留まることなく、
とうとう辺国である清澄の山中には、
蓮長法師の疑問に答えられる者が
一人も居なくなりました。
そこで二十一歳の時、
全宗旨を研鑽して仏教の真髄をつかむべく、
比叡山の横川(よかわ)定光院を中心に、
遊学の旅に出られました。
古くは奈良で起こった各宗をはじめ、
弘法大師が中国より伝え、
大日如来をまつって祈祷を中心にする真言宗。
経典に頼らず、
座禅によって覚りを得ようとする禅宗。
この苦しみに満ちた世を厭(いと)い、
念仏を唱えて、
せめて死後に極楽浄土への往生を願う浄土宗など、
各々どの宗派も、
正しい教えを伝えていると主張していました。
「成仏の法がいくつもあり、
 いずれも現世において
 国も人も安らかにならないのはおかしい。
 元々私が学問を志した理由は、
 釈尊の真意が説かれた教えを明らかにし、
 まず自らが成仏して、
 恩ある人々をみな救うためなのだ」
比叡山に戻り、再び勉学に励まれた蓮長法師は、
「法によって人によらざれ」という
お釈迦様のご遺言に出会われました。
先師の主張ではなく、
お釈迦様のお言葉である経典に直接お尋ねし、
私見を交えず、素直に我が身をゆだねられたのです。
そしてお釈迦様の真意は、
いつの世においても、
誰であろうと成仏できると説かれた唯一の教え
「法華経」にあると確信されました。

四、立教開宗

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お釈迦様がご入滅された後の世、
とりわけ争いのやまない乱れた世となる末法では、
邪な智恵を身につけた者が充満しています。
そのような中で、一人正しい教えを説こうとすれば、
必ずや世間の耳目を驚かせ、
ひいては命にも及ぶ大難が降りかかると説かれます。
しかし、そのような国と時代にこそ、
法華経は光を放つのです。
そして、お釈迦様の永遠のお導きを担う法華経の行者、
すなわち、永遠の過去からお釈迦様のお弟子である
「本化の菩薩」が出現され、
人々の先頭に立つと説かれています。
言うべきか、
それとも、命を失うことを恐れて言わざるべきか。
ほどなくして、蓮長法師のお覚悟は決まりました。
「過去世において、
 幾度となくこの世に生を受けようとも、
 いつもその身を惜しみ、
 正しい法に背いてきたことであろう。
 しかし教主釈尊が、
 我が子としてその盲目を開かんと導かれ、
 無間地獄の苦しみを除こうとされている
 大慈悲を想うに、
 今こそ命に代えて御恩に報いなければ、
 仏弟子として顔向けができない」
建長五年四月二十八日の早朝、
清澄に戻られた蓮長法師は、
旭が森の頂に登り、太平洋から昇る朝日に向かって
「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と、
始めて御題目をお唱えになったのです。

五、初転法輪

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「仏法の真髄を見極める智恵を頂いた虚空蔵菩薩様、
そしてお師匠様や両親をはじめ清澄の人々に、
まずご恩返しをしなければ」
その日清澄寺では、
帰郷の報告を兼ねたお説法会が開かれました。
師の道善房だけでなく、兄弟子達や村の人々も、
当時、仏教研鑽の最高学府であった比叡山や、
名だたる諸寺院を遊学した成果が聞けると、
期待に胸を躍らせていました。
また、この地の土地管理や年貢の徴収に当たる
地頭の東条景信は、熱心な念仏信者でもあり、
有り難い阿弥陀仏の話を期待していました。
ところが、蓮長法師の一声に皆が驚き、
色めき立ちました。
「この娑婆世界の主(あるじ)は誰か。
 仏法の根本なる師は誰か。
 遠い過去より一切の者達を我が子として慈しまれ、
 いつの世もお導き下さっているのは、
 釈迦牟尼世尊ではないか。
 その大恩を忘れ、阿弥陀仏等を頼むのは、
 孝行を知らぬ者である」
日頃より権威を振りかざしていた地頭の景信は、
刀を抜かんばかりの勢いで怒りだしました。
しかし、道善房が蓮長法師を小湊から追い出すことで、
何とかその場を収めたのです。
両親のもとへ行かれた蓮長法師は、
法華経の尊さとご自身の使命を話され、
最初の信者となった父・重忠に「妙日」、
母・梅菊に「妙蓮」の名を贈られ、
故郷である清澄の地を後にされたのです。

六、鎌倉布教

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「明らかなること日月にすぎんや。
 浄(きよ)きこと蓮華にまさるべきや。
 法華経は日月と蓮華となり。
 故に妙法蓮華経と名づく。
 日蓮また日月と蓮華との如くなり」
自ら「日蓮」と名乗り、
政治の中心地である鎌倉へ着かれた大聖人は、
松葉ヶ谷(まつばがやつ)の地に草庵を結ばれました。
そして街頭に立ち、御題目の旗をかかげて、
獅子の吼(ほ)えるが如く、
諸宗の成仏が叶わぬことを訴えたのです。
念仏の信者からは罵声を浴びせられ、
時には石や瓦を投げつけられました。
また、対論をしかけようと、
諸宗の僧侶達も次々とやって来ましたが、
大聖人が一言二言、経文を挙げるだけで、
みな沈黙してしまいました。
そんな中でも、国の行く末を憂い、
毅然として法門を語られる大聖人の姿に感銘を受け、
後の六人の本弟子に数えられる日昭上人や日朗上人、
四大檀越の内の四条金吾や池上宗仲、
学識の深い、下総(しもうさ)の富木常忍、
太田乗明・曽谷教信等、
大聖人の弟子や信者となる人々も現れました。
またその頃、鎌倉では
人々の約三分の一が命を失う程の大地震が起き、
さらに異常気象による飢饉や、
疫病までが広がりました。
町は牛や馬の死体、
人の骨までが横たわる地獄絵図と化したのです。
そこで大聖人は、富士の麓にある
岩本実相寺の経蔵に入られ、
すべての仏教経典を読み返して、
この大惨事の原因を追求されました。

七、松葉ヶ谷法難

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鎌倉の非常事態に幕府はなす術(すべ)が無く、
諸宗の高僧や陰陽師(おんみょうじ)による祈祷も、
事態を悪化させるばかりでした。
一方、経文にはその原因が明らかに説かれていました。
人々が邪(よこしま)な智恵を頼み、
正しい法を謗(そし)る世になると、
国を守るべき善神は去り、
世間はおろか国土も乱れるというのです。
そして内乱が起こり、
他国からも侵略されるという危機さえ迫ります。
「人々が互いの本質を仏として認め、
 皆が尊き行いを担(にな)うよう、
 御題目によって礼拝し合う浄土を、
 この国に実現させねばならない。
 そのためには、
 まず世を治める国の主こそ眼を開く必要がある」
日蓮聖人は、前の執権でありながら
絶大なる権力と指導力を持っていた
北条時頼(ときより)に対し、
諫暁の書『立正安国論』を奏進されました。
しかし、仏法よりも時局を鑑みた幕府からは、
何の音沙汰もありません。
それどころか、大聖人を疎ましく思っていた連中が
暗殺を企て、
夜中に草庵を取り囲んで火を放ったのです。
間一髪、大聖人は
突然現れた白い猿達に衣の袖を引かれ、
夕刻の内に草庵から離れたため、
無事難を逃れられました。
そうして、再び鎌倉の辻に立たれた姿を見て、
いよいよ幕府の権力者や、
念仏信者の女房連中により、
大聖人の追放が画策されるのです。

八、由比ケ浜の別れ

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幕府には貞永式目という法律があり、
放火あるいは人の命を殺めようとする者には、
死罪の厳罰が下ります。
しかし、日蓮聖人の草庵を焼き払った者達には
一向にお咎めが無く、
逆に大聖人は、権力者の命によって悪口の罪で捕えられ、
伊豆の伊東へ流罪となりました。
いつも大聖人のそばで
ご給仕されていた弟子の日朗上人は、
船のとも綱をつかみ、
自らも流罪にするよう懇願しました。
しかしそれも聞き入れられず、
役人に力いっぱい櫂で打たれ、
右腕を折られてしまいました。
その様子をご覧になられた大聖人、
日朗上人の想いを汲まれ、
船の上から叫ばれました。
「この地と伊東とは西東、
 八重(やえ)の潮路は遠くとも、
 朝日、東天に登り給わば、日朗、
 鎌倉にありと思うべし。
 月、西山に傾く時は、
 日蓮、伊東にありと知れ。
 此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然……」
涙を流しながら船を見送る弟子たちの耳から、
宝塔偈を読まれる大聖人の声が次第に遠ざかり、
波音の中へ消えて行きました。

九、伊豆法難

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伊東の地を彼方に望んだその時、
突然、海上で船が止められ、
日蓮聖人は役人に降りるようせかされました。
なんとそこは、潮が満ちると海中に沈んでしまう
「まないた岩」と呼ばれる小岩の上だったのです。
置き去りにされた大聖人は、
四方を荒波に囲まれながらも、
動じずに御題目を唱え続けられました。
するとしばらくして、
その声を聞きつけ小舟が近づいて来ました。
小舟の主は、弥三郎という名の漁師でした。
弥三郎は大聖人のお姿を見て驚きましたが、
すぐにお助けして網置き場の
岩屋にかくまい、
女房と共にねんごろにご給仕をされたのです。
「地頭の伊東祐光はじめ、
 伊豆の人々がこぞって
 この日蓮を憎む様は、鎌倉の人々以上である。
 なのに、そなた方ご夫妻は
 内々に日蓮を育んで下さる。
 まるで小湊の父母が、
 この地に生まれ変わられたようだ」
そんなある日、地頭の祐光が重い病にかかりました。
どんな薬や祈りでも回復しないため、
ついには日蓮聖人を探し当て、祈祷を命じたのです。
はじめ大聖人は、その要請をきっぱり断られましたが、
ほどなく、祐光にわずかながら
信心が芽生えたのをご覧になり、
諸仏・諸天に申し上げるや、
不思議と病が平癒しました。
祐光はお礼にと、
海中より出現したお釈迦様の立像を大聖人に奉り、
大聖人は、生涯このお像を
随身仏(ずいしんぶつ)としてまつられました。

十、小松原法難

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それからというもの、日蓮聖人の待遇は一気に好転し、
ついには赦免されて鎌倉へ戻られました。
ちょうどその頃、故郷では地頭の東条景信が、
清澄寺の諸房を無理矢理、
念仏者に従わせようとする等、
傍若無人の振る舞いをしていました。
そこで、小湊の所領を管理する
領家の尼に種々の助言をして
見事裁判に勝ち、
大聖人ご自身も清澄への出入りが自由となりました。
ところが、久しぶりの故郷では、
母の梅菊が瀕死の床に伏していたのです。
そこで、大聖人が御題目を唱えて祈られたところ、
たちまち母の病は癒え、四年の寿命を延ばされました。
そんな喜びもつかの間、
信者の工藤吉隆の請いにより、
弟子・信者十人ほどと共に、
説法に向かわれた時のことです。
小松原という大路で、景信をはじめ、
数えきれない程の念仏者等の襲撃に遭われました。
雨の如く降る矢を払い、刀を払うも、
腕に覚えのある者はわずか三、四人。
弟子の鏡忍房と、
迎えに馳せ参じた工藤良隆は討ち死にし、
日蓮聖人も、景信により額に深い刀傷を負われました。
「末法悪世の法華経の行者は、
 様々な無智なる人から悪く言われ、
 罵(ののし)られ、時には杖で打たれ、
 刀で切られることもあるであろう」
まさしく小松原での大難は、
法華経に予言された通りでした。

十一、祈雨対決

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文永五年正月、中国全土を制圧した蒙古国から、
幕府に国書が届きました。
すでに日蓮聖人が『立正安国論』で示されたが如く、
他国からの侵略が、
ついに現実のものとして迫って来たのです。
大聖人は、幕府や諸宗の主要な寺々に
十一通の諫暁書(かんぎょうしょ)を送り、
日本の危機を救うため、
今こそ公の場で諸宗の正邪を明らかにされようと
呼びかけましたが、
仏法の鏡に照らされた事実に目を背け、
あるいは保身からか、
一人としてこれに応じる者はありませんでした。
その後、今度は大干ばつが続き、
幕府は真言律宗の高僧である極楽寺良観に、
雨乞いの修法を命じました。
この良観は、いかにも清らかな振る舞いと
慈善事業により、
民衆から生き仏と呼ばれていましたが、
幕府の権力者とつながり、
深い名誉欲を内に秘めていたのです。
末法では、在家と出家の両方から、
法華経の行者を迫害する者が現れます。
そして最も甚(はなは)だしい者は、
人から尊敬を集めながらも、
密かに力を振るう聖者であると、
法華経には記されています。
そのことを知る大聖人は、
良観に対し、
「七日で雨が降れば日蓮の負け、
 降らなければ数珠を切って
 法華経に帰依せよ」
と手紙を出しました。
果たして、十四日を祈っても雨は一滴も降らず、
大風が吹くばかり。
今度は大聖人が御題目を唱えて祈ると、
たちどころに雨が降りました。
良観はかえって怨みを深め、
ついに大聖人を暗殺しようと画策するのです。

十二、召し捕り

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良観の呼びかけにより、諸宗の僧侶達が、
次々と権力者やその女房、
あるいは後家尼達に対して、
事実無根の訴えを起こしました。
「日蓮という者は、
 日本を滅ぼそうと呪う大悪僧である。
 弟子ともども問答無用に首をはねるか、
 遠国へ流して牢に閉じ込めよ」
かくして公場での法論対決の願いも聞き入れられず、
文永八年九月十二日、
平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)頼綱を先頭に、
雑兵達が列をなして日蓮聖人の草庵に押し掛けました。
「国内では同士討ちの戦、
 他国からは侵略の危機、
 この一大事をなんとする。
 この日蓮は日本国の棟梁なるぞ。
 日本国の柱を倒そうとするおつもりか!」
しかし、雑兵たちは聞く耳を持たず、
乱暴狼藉を極めました。
そして平左衛門尉は、
足元に散らばった経巻の一つをつかむと、
大聖人の額を力いっぱい打ちつけたのです。
大聖人はひるむこと無く
相手の腕をつかみ、その経巻に目にされるや、
感嘆の声を上げられました。
「不思議なるかな、
 いま日蓮が打たれしは法華経第五の巻。
 末法悪世の法華経の行者が打たるる予言も、
 この第五の巻にあり!」
とうとう大聖人は荒縄で縛り上げられ、
見せしめとして裸馬に乗せられました。
大聖人を心から慕う四条金吾は、知らせを聞き、
自らも命を断ってお供をしようと駆けつけると、
馬の口縄(くちなわ)をとって歩きました。

十三、龍口法難

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一行が鶴ヶ岡八幡宮にさしかかった時、
日蓮聖人は突然馬を止めさせると、
社(やしろ)に向かい、大声でこう申されました。
「いかに八幡大菩薩はまことの神か。
 この日蓮は日本第一の法華経の行者なるぞ。 
 法華経説法の会座(えざ)には、 
 法華経説法の会座には、日本中の善神も連なり、
 行者を守護する誓いを立てたはずであろう。
 日本中の善神も連なり、
 行者を守護する誓いを立てたはずであろう。
 今こそ居合わせて、教主釈尊との約束をとげよ!」
深夜、一行は龍ノ口という刑場に着きました。
公の判決は流罪でしたが、大聖人が察しておられた通り、
密かに処刑が企てられていたのです。
いよいよ、わら筵(むしろ)に座らされた大聖人を見て、
四条金吾はこらえきれず、男泣きに泣きました
「そなた、まだ覚悟が定まらぬか。
 法華経のために命を捨て、
 我が過去世で法華経を誹謗した重罪も滅し、
 晴れて釈尊にまみえる時が来たのだ。
 これほどの喜びは無いのだから笑うがよい」
太刀(たち)取りが刀をかまえたその時です。
江ノ島の方角から突然に光の玉が飛来し、
目の前を月夜の如く照らして通り過ぎました。
太刀取りは目がくらんで倒れ、
他の役人達も、驚いて逃げ去る者、
馬から降りてかしこまる者、
馬の上でうずくまる者……。
とても処刑どころでありません。
そうして大聖人は、
厚木市は依智の
本間重連(しげつら)の館に預りとなりました。
そして、ほどなく幕府より、
大聖人の処刑を禁じる沙汰が下ったのです。


十四、佐渡法難

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それから二十日を経た後、
日蓮聖人は依智より連れられ、
新潟の寺泊(てらどまり)より舟に乗り、
流罪の地、佐渡へ送られました。
極寒の地で与えられたお堂は、
遺体が捨てられる塚原という地にあり、
壁は崩れて寒風が吹きすさび、屋根の隙間からは、
雪が中に降り積もるという「あばら屋」でした。
初めは訪れる人も無く、昼は法華経、
あるいは自身の心の内を見つめる
修行の書『摩訶止観』を読まれて御題目を唱え、
夜は月や星に向かい、
諸宗の相違や、法華経の深義を語っておられました。
ある日のこと、
阿仏房という名の念仏僧が「阿弥陀仏の敵」と、
肩をいからして訪ねてきました。
ところが、寒さと飢えの中でも
揺るぎない大聖人の信念と、
世を想う慈悲心に感銘を受け、
熱心な信者となりました。
そして妻の千日尼と共に、
毎日食事や必要な物を運ぶようになったのです。
やがて、他の念仏や天台・真言の僧達も
次々とやって来ては、大聖人に問答を迫りましたが、
皆ことごとく論破されました。
「この地で命がついえる前に、
 付き従ってくれた鎌倉の弟子達に、
 法華経修行の根幹を伝えておかねばならない」
末法の法華経の行者は、
たびたび所を追われるという法華経のご教示。
それを我が身に読まれた大聖人は、
教主釈尊によって久遠の教化を受けた
本弟子の筆頭「上行菩薩」のご自覚を込めて、
一期(いちご)の大事とされる
『開目抄』を述作されました。

十五、大曼荼羅始顕

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「我れ日本の柱とならん、
 我れ日本の眼目とならん、
 我れ日本の大船とならん、
 等と誓いし願、やぶるべからず」
佐渡における日蓮聖人のご誓願は、
どのような誘惑や脅しにも屈しないという、
お覚悟の現れでした。
現世に執着したまま命を失うなら、
それは大きな苦しみとなる。
しかし、永遠に来世へと続く
大河の如き不滅の命を信じ、
我が命に永遠に寄り添って下さる、
お釈迦様のお導きを信じるならば、
法のために現世の命を失うとも、
安らかなる心は決して揺らがない。
そのように、上行菩薩の眼を開かれた大聖人は、
塚原の地より、
一の谷入道(いちのさわにゅうどう)の館へ移されるや、
お釈迦様の本弟子として、その身の当たる大事とされる
『観心本尊抄』を述作されました。
「釈尊の因行果徳の二法は、
 妙法蓮華経の五字に具足す。
 我らこの五字を受持すれば、
 自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」
お釈迦様のお導きと覚りは、
御題目を唱え伝えるという修行の中に
すべて備わっており、
自ずとお釈迦様と一体になる成仏がそこに実現する。
この御題目こそが成仏の種(たね)であり、
一切衆生がみな御題目を唱え、
互いに救済の活動をしている浄土の姿を、
大聖人はこの佐渡の地で初めて
『大曼荼羅御本尊』として顕されたのです。

十六、赦免状

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流刑の身でありながら、佐渡においても
日蓮聖人の信者はたちまち増えていきました。
すると、島内の諸宗の寺々は、自分たちの生活が
脅(おびや)かされるのを恐れて幕府に訴えを起こし、
弟子や信者達は、次々と投獄されてしまったのです。
ところが、鎌倉にたびたび蒙古から使者が来るに加え、
またしても『立正安国論』に示された通り、
北条時輔(ときすけ)による内乱が起きたため、
幕府はあわてて投獄した門下を
牢から出してしまいました。
これを機に、鎌倉の弟子や信者達の間では、
大聖人の赦免(しゃめん)を、
幕府に要請しようと動いていました。
しかし、動向を聞きつけられた大聖人は、
それを固く留められました。
ご自身が法華経の経文に運ばれて佐渡の地に至り、
お釈迦様の本弟子のお役目として
『観心本尊抄』をしたため、
『大曼荼羅御本尊』を顕そうとされる
矢先であったため、
「赦免の時は守護の善神に任せよ」
と訓戒されたのです。
そして、大曼荼羅図顕の大事を終えられた
翌年のある日、
庵室に頭の白いカラスが飛んで来て、
うれし鳴きをしました。
「これは近く赦免が下る瑞相であろう」
大聖人が予期された通り、文永十一年三月八日、
弟子の日朗上人によって、
無事に佐渡へ赦免状が届けられたのです。

十七、幕府諫暁

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二年四ヵ月余りの、佐渡でのご生活。
阿仏房夫妻をはじめ、
その親友の国府(こう)入道夫妻や島の人達に
別れを告げられた日蓮聖人は、
無事に鎌倉へ戻られました。
それから数日が経ったある日、
幕府は大聖人に面会を求めてきました。
対面したのは、
あの龍ノ口で大聖人を処刑しようとした、
平左衛門尉頼綱です。
しかし、今は執権・北条時宗の命を受け、
うって変わった丁重な態度で質問をしてきました。
「次に蒙古はいつごろ来襲するであろうか」
「経文にいつとはありませんが、
 天の様子は怒り少なからず、
 年内には攻めてくるでありましょう」
「どのように対策すればよいか」
「真言師に祈祷を仰せ付けてはなりません。
 一刻も早く儀礼や馴れ合いはやめ、
 教主釈尊の本懐である法華経に帰依されますよう」
それでも幕府は、信仰よりも政治的な計らいを重んじ、
習慣化・伝統化している諸宗寺院とのつながりを、
改めることはありませんでした。
大聖人は
「主君を三度諫(いさ)むるに用いずは、
 山林に交(まじわ)れ」
との、いにしえの賢人の戒(いまし)め通り、
鎌倉を出られ、
身延山へ向かって旅立たれるのです。

十八、身延入山

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文永十一年五月十七日、日蓮聖人は、
波木井実長(さねなが)公の請(こ)いにより、
山梨県の身延山に建てられた草庵に住まわれました。
国中のどこにも、長く身を置かれる場所が無かった程、
法難に次ぐ法難の日々を
過ごされていた大聖人にとって、
弟子としてお釈迦様に十分ご給仕できなかったことが、
何よりの気がかりでした。
この身延山を、
法華経が説かれたインドの霊鷲山に見立てられ、
伊豆よりずっとお仕えしていた、
お釈迦様の立像を前に、
大聖人は父と子が語らうが如く、
日々御題目をお唱えになり、
また山頂に登られては、
遥か安房小湊のご両親のお墓を拝まれました。
身延山は、草木や吹く風までが、
御題目となって響く山となったのです。
一方、この年の十月五日、
大聖人が経文をもって幕府に予言された通り、
蒙古の大軍勢が対馬(つしま)や壱岐(いき)、
さらには博多付近に来襲しました。
途中、暴風雨のため、
蒙古軍の船は大半が沈んで退却しましたが、
大勢の武士や民衆が殺害され、
幕府はその脅威におののきました。
大聖人は、法華経の経文が
お釈迦様による真実のお言葉であることを
あらためて戒められ、
翌年に述作された『撰時抄』にて、
「それ仏法を学せん法は、先(ま)ず時をならうべし」と、
末法という時にかなった教えによって、
乱れた世を照らすべきことを、
弟子達に説かれました。

十九、身延下山

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蒙古来襲による惨状を伝え聞き、
日蓮聖人は心を痛めながらも、
国の情勢をつぶさに見守られていました。
身延に入られて二年後には、
師の道善房の訃報を聞かれるや、
悲しみの中で『報恩抄』をしたためられ、
臆病な性分から、
最後まで信心が揺らいでいた道善房に対し、
師の恩に報いるため、
正法を謗った罪を毅然として説かれる一方で、
大聖人が命に代えて御題目を弘め続けた功徳は、
我が身を育んで下さった道善房の聖霊に
注がれると結ばれました。
そうして、この文をお墓の前で読み聞かせるよう、
弟子の日向(にこう)上人に持たせたのです。
また、法門をもって、
正しきと邪(よこしま)なるを決する時を望み、
弟子達の育成にも心血を注がれました。
草庵には常に四十から六十人の弟子や信者達が集い、
昼夜(ちゅうや)に、法華経と要義の解説書を
ご講義されました。
そして大聖人を慕い、山深い草庵まで訪ねて来る者は、
ついに百人を越え、弘安四年十月には、
大聖人自らが「身延山久遠寺」と命名された、
十間四面のお堂が新たに建立されました。
しかしその翌年、日々にお体に不調を覚えられるようになり、
弟子や信者達の勧めに従い、
安房小湊のご両親のお墓にお参りすると共に、
常陸(ひたち)の湯で療養されるため、
八年四ヶ月を過ごされた身延山を降りられるのです。

二十、御入滅

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日蓮聖人の一行は、波木井実長の子や郎党達に護られ、
十日間をかけて、
東京の池上宗仲・宗長兄弟の家に着きました。
しばらくご休息の後、
再び旅を続けられる予定でしたが、
無事に池上邸に着いた旨を、
波木井公に手紙で知らせるに当たり、
筆をお持ちになることもできない程、
大聖人は衰弱されておられました。
そこで、日興上人の代筆にて、
身延での長年にわたる外護にお礼を申され、
波木井公より送られた栗毛(くりげ)の馬に対しても、
長旅を思いやり、
「この馬はあまりにも可愛いく、
 慣れぬ馬番を付けると可哀想であるから、
 上総(かずさ)の藻原に居る信用できる者に預けたい」
と添えられました。
そして、
「どこで死を迎えようとも、
 墓は身延の沢にお建て下さい」
と遺言されるのです。
次第に寒さがつのる十月八日、
臨終の時が近づくのを感じられると、
大聖人は六人の本弟子を定められ、
肌身離さず持っておられた
母のご遺髪を、いつも大聖人のご給仕をされていた、
日朗上人に託されると共に、
釈尊の立像やお経本などの遺品分けをされました。
そして、七歳の頃より孫のように愛情をかけられ、
手取り足取り指導されてきた経一丸を枕元に呼ばれ、
京都での御題目弘通を託されたのでした。
十月十三日の午前八時、
池上の山に季節外れの桜の花が咲き、
弟子と信者達の御題目が響き渡る中、
日蓮聖人は六十一歳のご生涯を閉じられました。

二十一、エピローグ

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お釈迦様が、荒れ果てた末法の世に生きる私たちまでも
お救いになるためのシナリオ、それが『法華経』です。
その、我が子を思われる親の慈愛を受け継がれ、
法華経の予言通りに出現されるのが、
久遠にわたるお釈迦様の直弟子「本化の菩薩」。
「弟子一仏の子と生まれ、諸経の王に事(つか)う。
 何ぞ仏法の衰微(すいび)を見て、
 心情の哀惜(あいせき)を起さざらんや」
まさしく出(いで)るべき時代、
出(いで)るべき国に降誕され、
皆が共に仏の子として目覚めるよう願い導く言葉
「南無妙法蓮華経」の御題目を唱え弘められた
その人こそ、日蓮聖人なのです。


動画「日蓮聖人の御生涯」

https://youtu.be/70aX3OElEUk

企画作成:大阪市 本傳寺(ほんでんじ)
著作©  :御殿場市 久成寺(くじょうじ)蔵  
      堀内天嶺画 「日蓮聖人御一代記」
      ※本傳寺の許可が無い場合、この動画の流用はできません。


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