鶴が久保の真相
これまで暗渠探索者や地形散歩者の間で、「神田川支流」(玉川上水幡ヶ谷村分水、一名「和泉川」)の源流、代田橋駅北側に東西にのびる浅い谷筋は「鶴が久保」と呼ばれてきた。これは杉並区郷土博物館刊行の書籍「杉並の川と橋」(2009)での記載に拠るもので、同著によれば、近くにある「日大鶴ヶ丘高校」もその地名に由来するとされる。私も数年前までは著作や記事などでこれにならい「鶴が久保」と記してきた。
しかしよくよく調べてみると、日大鶴ヶ丘高校は1954年にこの地に移転してきており、その前の1951年の創立時点ですでに「鶴ヶ丘高校」を名乗っていた。一方「杉並の川と橋」では「(和泉川源流)のあたりを鶴が窪と呼んでいたらしい」と記載のあと、1993年の毎日新聞の記事から引用し、校名の由来を「学校の向かいの「鶴が窪」に対して「鶴ヶ丘」と名付けた」としており、辻褄が合わない。
実は、移転前の日大鶴が丘高校があったのは世田谷区下馬なのだが、その地には蛇崩川の支流の流れる「鶴が久保」があった。源流の谷頭は今も「鶴が久保公園」として残る。高校の名称はこちらの地名から取られていたのだ。下は1959年の1万分の1地形図
つまり「鶴が久保」は、「杉並の川と橋」の筆者が、新聞記事を勘違いしたー移転前の高校名の由来であったものを、移転後につけられたことによるものと誤解したーことにはじまる推定である可能性が高く、それゆえに全く別の場所の地名が、この地のものとされていたことになる。ではこの谷の地名はなにか。1917年の1万分の1地形図をみると近くに「谷戸」という地名が確認できる。おそらく単に「谷戸」と呼ぶのが正解なのだろう。
かたや蛇崩川水系〜目黒川水系、かたや神田川水系。丘を4つも超えた先の関係ない場所の呼び名として一人歩きしてしまった鶴が久保であった。
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